赦しとは
赦しというと、相手がしたことを水に流すこと、もう怒らないこと、受け入れること。そのように捉えられることがあります。
けれど、ここでいう赦しは、相手の行為を肯定することではありません。
間違っていることは、間違っている。責任があるなら、その責任はあります。
赦しとは、それらを曖昧にすることではありません。相手を見下したり、断罪したり、裁いたり、排除し続けることをやめていくことです。
赦しは、自分を理解することから始まる
前の記事では、降参(サレンダー)についてお伝えしました。
人は、現実を変えたいと思います。他人を変えたい。自分の望む形にしたい。分かっていても、手放せない。
そして最後には、そんな自分自身のエゴや傲慢さすら、自分の力では簡単に消すことができない。
そこに降参していきます。
その先で見えてくるのが、人間とは、そういうふうにしか生きられないことがある、ということです。
分かっていても、執着する。やめたいと思っても、やめられない。自分でも愚かだと思うことを、繰り返してしまう。
それは他人だけではなく、自分自身も同じです。
まず、そのことを自分に対して理解していきます。
自分を理解すると、他人への見え方が変わる
自分自身の愚かさやエゴを理解していくと、他人への見え方も少しずつ変わっていきます。
他人が愚かな行動をしていたり、好ましくないことをしていたとしても、ただ「なんてひどい人なんだ」とは思えなくなっていきます。
自分も、形は違っていても、同じように愚かなことをしてきた。
そういうことが分かるからです。
すると、なぜその人がその行動をしているのか、なぜそこから抜けられないのか、ということに対して、裁く気持ちではなく、理解を向けられるようになります。
赦すことと、行為を肯定することは違う
ここで大切なのは、相手を理解することと、相手の行為を肯定することは、まったく別だということです。
相手の行為が間違っているなら、間違っている。
責任があるなら、責任はあります。
それを、「仕方がなかったよね」「それでもいいよね」と認めることが、赦しではありません。
ただ、その人を「悪い側」に置いて、断罪し続ける必要がなくなる。
排除する必要もなくなる。
原理から見れば、その人も、その人なりの因果の中で、その状態にあります。
それを、そのまま理解を持って見ることができるようになります。
赦しは、毅然としているけれど温かい
赦しとは、甘やかすことではありません。何でも許容することでもありません。
必要なら距離を取ることもあります。必要なら、NOと言うこともあります。責任を求めることもあります。
けれど、そこに相手を断罪し、排除しようとする気持ちはありません。
毅然としている。でも、冷たくはない。厳しさはある。でも、どこかに温かみと思いやりがある。
赦しとは、そのような態度に近いものだと思います。
だから、ここまで原理と境界線を見てきた
このような赦しは、「相手を赦そう」と思うだけでは、なかなかできません。
自分と他人の領域が分かれていなければ、相手を理解しようとして、相手の責任まで背負ってしまうことがあります。
二元論のままなら、「正しい側」と「間違っている側」に分けて、間違っている側を排除してしまいます。
原理が分からなければ、その人がなぜその状態にあるのかも見えません。
だから先に、因果の法則を見て、二元論について考え、自他境界線を引き、コントロールを手放してきました。
その土台があって初めて、相手を裁くのではなく、理解を向けて見ることができるようになります。
間違った赦し
赦したつもりになっていても、実際には赦しになっていないことがあります。
相手を排除している赦し
「相手は相手、自分は自分」「もうあの人のことは赦した」
そう言いながら、心の中では完全に相手を切り離し、排除していることがあります。
怒りがなくなっただけで、実はその怒りは手放されていません。
それは、理解の上に成り立つ赦しではありません。
見下すことで成立している赦し
「あの人はまだ分かっていないから仕方がない」
「まだその程度なんだろう」
そのように考えることで、怒らなくなることもあります。
けれどそこに、「自分は分かっている側」「相手は分かっていない側」という上下が残っているなら、それは見下しによって、ただ距離を取っているだけの状態です。
自分の方が大人になった気になる赦し
「相手にも事情があったんだろう」
「私の方が大人になって受け入れてあげよう」
そのような形で、少し自分が上に立ったような気持ちになることもあります。
一見、穏やかに見えます。
けれど、そこに上下や優劣が残っているなら、まだ本当の意味で、相手に理解を向けているわけではありません。
なぜ、赦しが大切なのか
間違った赦しのままでは、表面上は落ち着いたように見えても、本当は苦しいままです。
諦めたつもりでも、気にしないつもりでも、どこかで世界との間に距離が残ったままです。
赦しとは、自分自身を理解し、他人にも理解を向けられるようになることです。
それは言い換えれば、自分が先に世界を受け入れることでもあります。
自分が先に世界を受け入れるようになると、世界はあなたを受け入れるようになっていきます。
他人に理解されたいと思う前に、まず自分が自分を理解し、他人にも理解を向ける。そういうことです。
逆に考えてみてください。
自分のことをすぐに裁かず、決めつけず、理解を向けてくれる人がいたら、その人と一緒にいたいと思わないでしょうか。
人は、そのような人の周りに自然と集まります。声がかかることも増えます。必要な縁がつながることもあります。
いわゆる「引き寄せの法則」と呼ばれるものは、本当はこういうことです。
私の言葉で言うと、それは「大いなる流れ」です。
赦して終わりではない
赦しが深まっていくと、人との関わり方も変わります。
以前より、人を裁かなくなる。理解を向けられるようになる。物事が、あるがまま見えるようになる。
その結果として、人間関係がうまくいったり、仕事で良いオファーが来たり、お金の巡りが良くなっていくことがあります。
だからこそ、ここでも注意が必要です。
「こんなにも人を赦せる私は、すごい」
「私はもう分かっている側なんだ」
そうやって、今度は「赦せる自分」という自己像を握り始めることがあります。
それでは、また新しい執着になります。
「私は赦した」「私は理解した」「この人はこういう構造だった」
その理解そのものを、今度は手放していきます。
次は、理解を手放すことについて説明していきます。
