理解を手放すとは
執着と向き合う中で、ここまでくると、それまで曖昧だったことに、自分なりの理解が生まれているはずです。
人との距離の取り方。物事の見方。執着との向き合い方について、「ああ、自分が悩んでいたのは、こういうことだったのか」と腑に落ちることが増えていきます。
けれど、これは私の経験則ですが、人は何かを理解すると、その理解そのものを新しい執着として握ることがあります。どうやら人とは、そのようなもののようです。
一つの執着を手放したと思ったら、その中からまた新しい執着が出てくる。まるで、マトリョーシカのようです。
このような構造については、 「マトリョーシカ構造とは」 でも詳しく説明しています。
「分かった」が、新しい執着になる
たとえば、「私は自他境界線が引けるようになった」「私は二元論を理解した」「私はもう相手に振り回されなくなった」
そのような理解が生まれることがあります。
理解すること自体が悪いわけではありません。
けれど、その理解を握り始めると、「私は分かっている」「あの人はまだ分かっていない」という、新しい見方が生まれることがあります。
すると今度は、「分かっている自分と、分かっていない他人」というものの見方になり、その中で、自分は分かっている側である。
そして、「分かっていない愚かな人間」が、この世を悪くしているのだ、という新しい二元論が生まれます。
二元論を手放したはずなのに、今度は「二元論を理解した自分」という理解を使って、また新しい二元論を作ってしまう。そのようなねじれが起きます。
他人へのラベリングと、自己像の固定
理解を握ると、他人へのラベリングが始まります。 「あの人はまだ分かっていない」「あの人は執着している」「あの人は未熟だ」のように。
そして同時に、「私は分かっている側」「私はもう赦せている」「私は二元論を抜けている」という自己像も作られていきます。
そうやって他人にレッテルを貼ることで、自分の位置が、相対的に「正義側」へ、固定されていく。
こうして、理解がまた新しい執着になっていきます。
ティア3以上で起きる、見えにくい二元論
このような二元論は、特にティア3以上で起きやすいものです。
ティア1やティア2で起きる自責・他責は、ある意味とても分かりやすいものです。
自分を責めている。
他人を責めている。
どちらも、二元論がそのまま表に出ています。
けれど、ティア3以上になると、すでに以前ほど他人に振り回されなくなり、自分と他人の境界もある程度分かるようになります。
原理についても理解し始めています。
だからこそ、
「私はもう二元論では見ていない」
「そんな単純な見方はしない」
「私はもう分かっている」
というところに、新しい二元論が隠れることがあります。
こちらの方が、ずっと分かりにくく、厄介なものです。
理解したあとの二元論ほど、気づきにくい
ティア1やティア2の二元論であれば、「自分を責めている」「他人を責めている」と比較的見つけやすいものです。
けれど、ティア3以上では、「これは自他境界線を引くと、相手の問題ですよね」「私はあるがまま見ていますが」「私はもう赦していますよ」という、もっともらしい理解の言葉を使うことができます。
だから、自分でも執着していることに気づきにくくなります。
そして、「私はもう、二元論ではない」と思っているからこそ、そのねじれた二元論を見つけることが難しくなります。
その結果、より長く、よりしつこく残る執着になります。
だからこそ、執着と向き合っていく上では、理解したことそのものを、新しい執着にしないということを知っておく必要があります。
理解を手放すとは、理解を通して見ないこと
理解を手放すとは、これまで理解してきたことを否定することではありません。 理解したことは、理解したこととしてあります。
このサイトを通して因果の法則を知ったことも、二元論について理解したことも、自他境界線について理解したことも、サレンダーや赦しについて理解したことも、なくなるわけではありません。
けれど、その理解を通して物事を見始めると、今目の前にあるものではなく、自分の中にある理解を見るようになります。
「これはこういうことだ」
「この人はこういう状態だ」
「やっぱり私の理解で合っていた」
そうやって、理解が新たなフィルターになります。
だから、理解は持っていても、それを前提にしない。自分は何も分かっていないかもしれない、という前提で、もう一度、今目の前にあるものを見る。
理解を持ちながら、その理解を通して見ない。それが、本当の意味で、あるがままを見るということです。
理解を手放すほど、自分が何も分かっていないことに気づく
理解を固定したまま物事を見ると、
「ほら、やっぱりそうだった」
「私の言った通りだった」
「やっぱりこの人はこういう人だった」
という見方になりやすくなります。
けれど、一度得た理解を横に置いて、今起きていることをそのまま見ようとすると、むしろ、自分がどれほど何も分かっていなかったのかに気づかされます。
理解したと思っていたことも、その時点で見えていた一つの側面にすぎなかったのかもしれない。自分には見えていなかったものが、まだあるのかもしれない。
だからこそ、理解したことを固定せず、もう一度、今目の前にあるものを見る。
そしてまた何かに気づいたとしても、それを次の答えとして握りしめない。
その繰り返しです。
理解は、あるがまま見るために使う
理解は、本来、物事をあるがまま見るためのものです。
けれど人は、理解を握り始めると、今度は「その理解に、現実を当てはめる」ようになりやすいものです。
そうなると、現実を見るために得たはずの理解が、現実を見ることを妨げるという、なんとも皮肉な状況になります。
だから、理解したら、また手放す。理解をなくすのではなく、その理解を通して、世界を見ない。
そうすることで、自分にも、他人にも、現実にも、もう一度そのまま向き合うことができるようになります。
そして、自分には分からないことがあるという前提で現実を見ることは、次の「在り方」にもつながっていきます。
次は、在り方を選び直すことについて説明していきます。
