このシリーズでは、被害者・思考停止・搾取・支配・偽善など、知らず知らずのうちに陥りやすく、執着を生み、人生の幸福度を大きく下げてしまう状態を整理しています。
人は、無自覚のうちに何かに執着し、そのループから抜けられなくなっていきます。自分の立ち位置を問い直し、内省を深めることだけが、結果として幸福につながっていきます。
できていない他人を責めて優越感に浸っても、幸福は積み上がりません。このシリーズでは「自分は今、どこに立っているのか」その問いを持ち、より良く生きるための軌道修正の考え方を提示していきます。
精神性シリーズ↓
もう一つ、
精神性を落とす生き方があります。
それが、一見すると非常に精神性が高く見える「カリスマ宗教家タイプ」です。
このタイプは、
露骨な悪者には見えません。
むしろ善意に満ち、正しく、人を導いてくれそうに見える。
だからこそ、
最も見抜きにくく、
最も気付かない形で
影響力を持ちながら、
人の精神性を下げていきます。
特徴:理想論で武装する
このタイプがまず行うのは、理想論による武装です。
語られるのは、
次のような言葉です。
世界平和・人類の幸福
まず最も強い武装が、個人を超えた大義です。
・人類の救済
・世界平和
・正義は勝つ
こうしたテーマを掲げることで、
個人の疑問や違和感は、
「小さなもの」
「未熟な視点」
として押し下げられていきます。
意見の違いは、単なる考えの違いではなく、
平和を乱す反論のように
扱われていきます。
正しさ・善意・使命
次に使われるのが、道徳的な正しさです。
例えば、
・それは正しい行いか
・人としてあるべき姿か
・使命を果たしているか
という語りで、
それ以外の選択肢は
「未熟」として処理されていきます。
ここで起きるのは、
正しさの定義のすり替えです。
「本当にそれが正しいか」ではなく、「あの人が言うなら、そうなんだろう」のように、
「誰が言ったか」が正しさの基準になっていく。
正しさが、
一つの人物や思想に
カリスマ的に集約されていきます。
成長・覚悟・試練
さらに、その統一された正しさに疑問を持たせないために使われるのが、
成長や覚悟という言葉です。
・その苦しさは試練
・今は耐える時期
・乗り越えれば成長する
・覚悟が足りない
こう言われると、
苦しさや違和感を感じている側が、
「自分が間違っているのだ」と
自分を責め始める語りをします。
そこでは本来、
立ち止まって考えるべき場面でも、
考えること自体が
「未熟」として否定されてしまうのです。
選ばれた側・目覚めた側という区分
ここで、
非常に強力な構造が完成します。
「分かる人は、目覚めた人」「準備ができた人」
逆に、「まだ分からない未熟な人」「外側の人」
という二極の区分が作られます。
「そこで掲げられた正しさ」を疑うことは、
「分かっていない側に落ちること」
と同義になります。
分かっていないと思われれば、
未熟者だと責められます。
ですから、人は、
責められないように同調し、
本当は浮かんでいるモヤモヤや疑問をなかったことにしていきます。
愛や平和を盾にした沈黙
最終的に起きるのは、
黙認の空気です。
・反論は未熟
・覚悟が足りない
・否定は平和を乱す
こうした言葉が、
直接言われなくても、
場の空気として共有される。
結果、
誰も異議を唱えなくなる。
これは、
善意と正しさを武装した
静かな支配です。
このタイプの見抜き方
このタイプを見抜くとき、
見るべきなのは言っている内容そのものではありません。
・それを見聞きした人が、
正しい答えを見つけたかのように
自分の判断を明け渡していないか
・疑問すら持たなくなっていないか
・思考停止していないか
です。
どれだけ正しい言葉を語っていても、
それを聞いた人間が
自分で考えなくなっているなら、
そこにその指導者の本質があります。
搾取ポジションとの決定的な違い
前回扱った
「わかりやすい悪者・搾取ポジション」は、
露骨で、現実的で、
比較的見抜きやすい。
ですが、このタイプは違います。
一見すると精神性が高く、善意に満ち、
人を良い方向へ導いてくれそうな
カリスマ的リーダーに見える。
だからこそ、
距離を取りたくなっても、
「意見に反する自分は
間違っているのかも」という
罪悪感に囚われてしまい、
離れるのが難しくなるのです。
裏側で起きていること
このタイプの問題の本質は、
相手を精神的に自立させないこと
にあります。
「あなたは未熟だから分からない」
「私に従えば、正しい方向に行ける」
「言うことを聞かないのは、間違っている」
そう言って、
自分で考えさせない
決めさせない
感覚を疑わせる
こうして、相手の内側にある思考力と判断力を
少しずつ奪っていきます。
これは、力による露骨な支配ではありません。
善意を装った依存への引き込みです。
なぜこのタイプが最も精神性を落とすのか
このタイプが、一番
人間の精神性を下げる要因となります。
なぜならば、被害者ポジション、搾取ポジションよりも、
圧倒的に他者への影響力が大きいからです。
人は本来、
人生で迷ったり、考えたりする中で、
酸いも甘いも通して思いやりを学び、
執着心が少しずつ解け、
人間性が高まっていく。
そうやって成長していくものです。
その過程で、
信頼できる誰かに相談したり、
助言をもらうこと自体は、悪いことではありません。
問題なのはその過程で、
本当は自分ですべき判断を
他人に委ねるという、
思考の放棄が起きてしまうことです。
相談ではなく、考えること、決めることそのものを
他人に明け渡してしまう。
そんな人間を大量生産する存在が、
この「カリスマ宗教家タイプ」です。
正しさを振りかざす構造
なぜ、これが問題なのか。
それは、人は
「助けてもらった」
と感じる体験をすると、
無意識のうちに
相手の矛盾を見抜けなくなるからです。
心理学では、
返報性の原理
認知的不協和の回避
権威バイアス+感情的債務
で説明されます。
人は、救われたと感じると
強い安心と感謝を覚え、
それは次第に、ある種の思い込みへと
変わっていきます。
「この人は、
自分を助けてくれたのだから、
正しい人に違いない。」
「この人の言うことは、
信じていいはずだ」と。
すると、人はいつのまにか
その人物を
「いつでも正しいことを言う人」
として認識し始めます。
例えば、本来であれば、
その発言には一貫性はあるか?や
違和感はないか?が
吟味されるべき場面でも
一足飛びに、
その人の発言や考え方全体を
これ以上疑う必要のない
「最終的な正解」として
受け取るようになります。
人がするべき判断は省略され、
思考停止していきます。
カリスマ教祖の存在そのものが、自己アイデンティティになる
こうして、その人物を信じていること自体が、
「自分の正しさ」の根拠になります。
自分は、正しい人の側に立っている。
だから、自分は間違っていない。
そう信じたい気持ちが、
その人物や思想と、自分の同一化を、
さらに強めていきます。
この同一化が進むと、
もはや意見の違いは、単なる考え方の違いではなくなります。
その人物や思想が否定されることは、
自分の信念が否定されること。
自分のこれまでの選択や人生が、
間違っていたと言われること。
そう、無意識に受け取られてしまう。
だから人は、必死になります。
異なる意見を遠ざけ、
違和感を持つ人を未熟だと切り捨て
内と外を分け、
自分の正しさを守ろうとする。
実際、新興宗教や思想団体の中には、
自分たちだけが正しい。
外の意見はすべて未熟だ。
疑う人間は堕落している。
という空気が形成され、
異論が排除されていく構造を
持つものも存在します。
そこで起きているのは、真理の探究ではありません。
自分が信じてきたものを、
否定されたくない。
自分のこれまでの人生が、
間違っていたと思いたくないという、
強い自己防衛です。
本当の誇りは、揺らがない
本当に人生に誇りと自信があるなら、
異なる意見を排除する必要はありません。
他人の考えが違っていても、
それぞれを尊重すれば、
自分が揺らぐことはないからです。
※尊重とは、必ずしも相手の意見を鵜呑みにすることではありません。
人は、排他的になっているとき、
その心の根底には、
実は、不安と恐れが居座っています。
なぜなら、この正しさが崩れたら、自分は何者なのか。
これまでの人生は、何だったのか。
分からなくなってしまうから。
そうした不安から目を逸らすために、
正しさを振りかざしてしまう。
その時点で、精神性は大きく下がっているのです。
出会ったときの心の保ち方
この「カリスマ宗教家タイプ」に対して、
一番やってはいけないのは、
助けてもらいたい
導いてもらいたい
正解をもらいたい
と、すがって
判断を仰ぐことです。
どれだけ美しい理想を語っていても、
どれだけ安心感を与えられても、
その妥当性を疑う、
吟味する思考、
そういった目線を、失ってはいけません。
大切なのは、
・答えをもらわない
・決定権を渡さない
・私はどう感じるかを手放さない
ことです。
最後には、答えを必ず自分で見出す。
そこまでやって、
初めて自分の人生を
自分主体で歩んでいると言えます。
現代には、
占いやスピリチュアルサービスなど、迷ったときに助言を与える場は多くあります。
ですが、最後の判断と責任は、
必ず自分で引き受ける。
それが、精神性を落とさないための
最低条件です。
精神性を落とす生き方のまとめ
ここまで、
人生の被害者ポジション。
わかりやすい悪者・搾取ポジション。
一見精神性の高いカリスマ宗教家タイプ。
という、
三つの「精神性を落とす生き方」を
見てきました。
形は違っていても、
これらに共通していたのは、
他人との境界線が崩れていること
でした。
自分の人生の責任を、
他人に預ける。
他人の人生の領域に、
踏み込む。
善意や正しさの名のもとに、
判断や選択を奪う。
どの構造にも、
「自分の人生」と
「他人の人生」を
切り分けられていない状態が
ありました。
では、
精神性を高める生き方とは、
いったいどのような在り方なのでしょうか。
次の記事では、
これまでの三つをすべて踏まえたうえで、
思いやりと共依存を分ける
「境界線」とは何か。
そして、
多くの人が誤解している
「自己犠牲は美徳」という思い込みについて
精神性の観点でまとめています。
なお本記事は、
特定の宗教や人物を
断罪・断定するものではありません。
あくまで、
精神性を落とす生き方の
構造を扱っています。





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