このシリーズでは、被害者・思考停止・搾取・支配・偽善など、知らず知らずのうちに陥りやすく、執着を生み、人生の幸福度を大きく下げてしまう状態を整理しています。
人は、無自覚のうちに何かに執着し、そのループから抜けられなくなっていきます。自分の立ち位置を問い直し、内省を深めることだけが、結果として幸福につながっていきます。
できていない他人を責めて優越感に浸っても、幸福は積み上がりません。このシリーズでは「自分は今、どこに立っているのか」その問いを持ち、より良く生きるための軌道修正の考え方を提示していきます。
精神性シリーズ↓
三つのポジションに共通する「境界線の崩れ」
ここまで見てきた
三つの「精神性を落とす生き方」には、
はっきりとした共通点がありました。
それは、
他人との境界線が崩れていること
です。
①被害者ポジションでは、
自分の人生の責任を
他人に委ねます。
②搾取ポジションでは、
他人の人生や労力を
自分のもののように扱います。
③カリスマ支配ポジションでは、
他人の判断力や選択を
善意の名のもとに奪います。
形は違っても、
いずれも
「自分の人生」と
「他人の人生」の境界が
曖昧になっています。
境界線が崩れると人は共依存的になる
他人との境界線が崩れると、
人は共依存的になります。
それは、どちらか一方が
一方的に尽くしている状態
ではありません。
互いに相手の存在によって、
自分の存在意義や価値までもを
成立させている関係性のことです。
共依存の「支える側」
一つの典型は、
「自分がどうにかしなければならない」
と思い込む側です。
相手の問題に踏み込み、
感情を背負い、
相手の人生まで、
自分の責任だと感じ始めます。
ですが、
それだけでは、
共依存は成立しません。
共依存の「支えられる側」
もう一方には、
「この人がいるから自分は成り立っている」
という側が、
必ず存在します。
自分で考えない、
決めない、
人生の責任を引き受けない。
その代わりに、
誰かに委ねることで、
安心を得ている。
こうして、
一方は「支える役」。
もう一方は「支えられる役」。
という関係性で
互いの存在意義を
成立させていきます。
表面上は、
助け合っているように見えます。
思いやりのある関係に、
見えることもあります。
ですが、
実際には、
互いの自立を妨げ合う関係性です。
健全な思いやりとは何か
本来、
健全な思いやりとは、
他人の人生の領域に、
干渉しないことです。
単に無関心である、
という状態と
同義ではありません。
相手を、
一人の主体として
自由意志を尊重すること。
そして、
相手の人生の選択責任を、
相手に返すことです。
その上で、必要な手助けは行う。
でもそれは、
相手の人生の責任を
代わりに負うこととは、
違います。
多くの人が間違えやすい「思いやり」
ここで、多くの人が
「思いやり」と間違えやすいもの
があります。
それが、
自己犠牲です。
自己犠牲は、
他人に尽くします。
「この人のために」と
我慢もするし、
相手に譲ります。
そのため、
一見すると、
とても思いやりがあり、
相手を尊重しているように、
見えます。
ですが、
精神性の観点から見ると、
ここに、
大きな落とし穴があります。
「自己犠牲」の正体
自己犠牲の正体は、
思いやりのフリをした、
自他境界線越えです。
でも、本人は本当にそれを
思いやりだと思っています。
ですが、実際は、
他人の人生の領域に、
土足で踏み込んでいる。
「私がなんとかしてあげる」
「俺がなんとかする」
と、本来相手が自分でとるべき
人生の責任領域に、
必要以上に介入している状態です。
これは、
無償の愛ではありません。
思いやりのフリをして
隠れているのは、
感謝されたい、
必要とされたいなどの
承認欲求。
あるいは、嫌われたくない、
関係を失いたくない
などの縋る心。
さらには、
相手を思い通りにしたい
という支配欲求。
そうした類のエゴが
混じっているのです。
なぜ自己犠牲は精神性を下げるのか
自己犠牲は、
相手の人生の責任領域へ
土足で侵入しています。
本来、人が責任を負うことができるのは
自分の人生だけです。
他人の人生に
介入しているということは、
その自分の人生に
当然ですが、集中することができません。
人が割ける意思の力や、
お金、愛情、ほかさまざまなリソースは
限られていますから。
人は、自己犠牲をしているとき、
見返りがなければ、
必ずストレスが
溜まっていってしまいます。
無償の愛でなければ、
相手が自分の期待していた反応を
してくれないと、
当然ですが不満が溜まり、
関係性は
どんどんこじれていきます。
それが、共依存の本質です。
これは、
互いを尊重できている関係性では、
ありません。
「相手に、自分の期待している
反応をしてほしい」
と思っている時点で、
相手の自由意志を尊重できていません。
また、自己犠牲という行為自体が、
自分を尊重できていない状態です。
他人も自分も尊重し、
思いやる関係になければ、
精神性は成熟しません。
本来あるべき、成熟した思いやりとは
本来あるべき思いやりとは、
相手の人生の領域に、
土足で踏み込まないことです。
相手を、
一人の主体として、
尊重することです。
自由意志を阻止しない。
必要なときに、
手を差し伸べる。
ですが、
自由な代わりに、
人生の責任そのものは、
本人に返す。
ただ、子育ては、
はじめからこのようには
いきません。
未成年は、
精神的にも、法律的にも
人生の責任を
まだ自分で負えません。
発達状況に合わせて段階的に、
人生の責任を
本人が負う形で
親離れできるよう
サポートすることが必要です。
この境界線を保てているとき、
思いやりは、
見返りを求めず、
自分も相手も相互に尊重し合う
建設的な関係を築くことができます。
境界線を取り戻すということ
ここまで見てきたように、
精神性を落とす生き方は、
必ず
他人との境界線が崩れたところから
始まります。
被害者ポジションも、
搾取ポジションも、
カリスマ支配ポジションも、
そして自己犠牲も、
形は違えど、
すべて
「自分の人生」と
「他人の人生」を
混ぜてしまった状態です。
精神性が成熟する方向は一つしかない
精神性を高める方向は、
実はとてもシンプルです。
それは、
自分の人生の責任を、
自分に戻すこと。
そして同時に、
他人の人生の責任を、
他人に返すこと。
この二つを、
同時並行で行うこと。
明確に、境界線を引くのです。
境界線を引く=冷たさではない
境界線を引くというと、
冷たい。
突き放している。
思いやりがない。
そう感じる人もいます。
ですが、
それは逆です。
境界線があるからこそ、
相手を、
相手の人生の主体として
尊重することができる。
境界線があるからこそ、
自分も、
自分の人生に
責任を持つことができる。
自己犠牲を手放すことは、逃げではない
自己犠牲をやめることは、
逃げではありません。
無責任でもありません。
それは、
相手の人生を、
相手に返すという、
最大限の尊重です。
同時に、
自分の人生を、
自分の手に
取り戻す行為でもあります。
精神性が成熟する関係性とは
精神性が成熟する関係性とは、
どちらかが相手に依存したり、
どちらかが相手を支配したり
という関係ではありません。
互いに、
・自分の人生は自分で引き受ける
・相手の人生は相手に任せる
その前提の上で、
必要なときに、
必要な距離で、
手を差し伸べ合える関係です。
次の記事
ここまでで、
精神性を落とす生き方として、
・被害者ポジション
・搾取ポジション
・カリスマ支配ポジション
・自己犠牲という境界越え
を見てきました。
では、
これらすべてを踏まえた上で、
精神性を高める生き方とは、
具体的に、
どのような在り方なのか。
次の記事では、
境界線を保ったまま、
他人と関わり、
人生を引き受けていく
「成熟した精神性の立ち位置」
について、
整理していきます。




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