このブログは、
私の人生の中での気付きといいますか、
生きていく中で心に残ったものを中心に、
綴っていく場所です。
人間として生きる喜びのような、
明るいものだけでなく、
綺麗ごとでは済まされないもの。
たとえば、
憎しみ、嫉妬、恐れ、不安といった、
主に執着に起因する
「人生の苦しみ」。
そういったものを、
あまり型を決めずに、
扱っていけたらよいと思っています。
このブログで扱っているテーマ
人間は、
自分でも気が付かない執着に、
振り回される生き物です。
それは、
お金、名声、名誉、地位といった
現世的なものだけではありません。
「自分は特別だと思いたい」
「自分は分かっている側でありたい」
そうした
自己神話のストーリーもまた、
強い執着の一つです。
人間の争いや苦しみは、
突き詰めていけば、
すべてその執着から生まれています。
私がこのブログで綴りたいのは、
「執着は、自分次第で抜けられる」
ということです。
人生の苦しみは、
外側の出来事そのものではなく、
自分の心の在り方が
生み出しているからです。
このブログは、
そうした執着に自分で気付き、
自分で解いていく。
そのための
心の在り方や視点を、
後押しする場でありたいと
思っています。
このブログで大事にしていること
このブログで、
私が一番大切にしているのは、
何を言っているかや、
どれだけ正しいことを
言っているかではありません。
また、
私が書きたいことを
書きたいように書けているか、
でもありません。
それよりも、
それを読んだ人が、
どんな心の状態になるか。
そこを、
最も大切にしています。
思考停止状態にならないこと
哲学や思想、
スピリチュアルに近い文章を書くとき、
私が一番懸念していることがあります。
それは、
読んだあとに
読み手の思考が
止まってしまうことです。
たとえば、
誰かの言葉の圧や権威に負けて、
「この人が言うなら正しいだろう」
と、
無条件に従ってしまう状態。
新興宗教などで
よく見られる構造です。
その状態に人が陥ることを、
私は最も避けたいと思っています。
なぜなら、
その瞬間から人は、
自分の人生を生きなくなるからです。
人間の精神性や、
魂の成長は、
そこで止まってしまいます。
私は、
人の思考を停止させるような文章を
書きたくありません。
このブログで起きてほしいこと
このブログを訪れた方に、
起きてほしいことがあります。
それは、
「なるほど、そう考えればいいのか」
「やっと正しい答えを見つけた」
と、
思考停止することではありません。
そうではなく、
「では、自分はどう考えているのだろう」
という問いを、
自分の中に持ち続けてほしいのです。

そして、
自分の人生を
本当に生きている状態へ
向かっていくこと。
そうした思考が立ち上がり、
その人の内側に、
主体としての自己が
育っていくこと。
それが、
このブログが
目指している役割です。
私の視点について
ブログという表現の性質上、
ここに書かれる言葉は、
私が見てきたものや、
体験してきた景色から
生まれたものになります。
私という個人の体験を通して
見えてきた、
人間の心の構造。
私が何度も
違和感を覚えてきた場面や、
繰り返し目にしてきた
人間の在り方。
そのため、
ここに置かれる言葉には、
一定の「私」という視点、
個人的な体温が
含まれているかもしれません。
それ自体を、
無理に消そうとは思っていません。
ですが、
私の意見の正しさや、
言葉の圧に
従ってほしいわけではない。
そのことは、
はっきりさせておきたいと
思っています。
表現の姿勢について
物を書く上で、
私が大事にしている姿勢があります。
それは、
手塚治虫さんの
作品づくりの姿勢です。
手塚治虫さんは、
自分の思想を
前に押し出すために
作品を描いた人では
なかったと思います。
「これが正しい」
「こう考えるべきだ」と
読者に教えるのではなく、
生命の重さや、
人間の愚かさ、
矛盾や残酷さ。
それでも続いていく
生命という営みを、
読む人の解釈に委ねる形で描いた。
その姿勢に、
私は強く惹かれています。
このブログの役割
このブログは、
答えを渡す場所ではありません。
読み手の感情や思考が
動く「場」であること。
その人が、
自分の感覚に戻り、
自分で見て、
自分で考えるための
余地を残すこと。
それを、
何より大事にしています。
もし読んでいて、
少し立ち止まったり、
違和感が残ったり、
「自分の場合はどうだろう」
と考え始めたなら。
それはきっと、
このブログが
本来の役割を
果たしているということだと
思います。
そのような姿勢で
この場所を訪れてくださるなら、
それほど嬉しいことはありません。
