執着を解いたつもり「マトリョーシカ構造」にハマる罠

1.精神性

執着を解き始めた人が陥りやすい「罠」

本当に執着が無くなる

というのは、

そんな自分(執着を解けた自分)

って、すごいのでは?と

自分を特別視したり

「自分は分かってる側」

「分からない人間は劣っている」

のような

優劣(二元論)の立ち位置にも

いない状態です。

ところが、

自分の内側にあった執着が

ほどけ始めると、

その軽さや、解放感から

「やっと報われたんだ」

と感じ始めることがあります。

そして次第に、

「自分は特別な段階に入った」

「自分は上にいる」

という感覚が生まれ、

自分の立ち位置を

特別なものとして

錯覚し始めてしまうケースも

少なくありません。

確かに、人は一人一人

価値があります。

その意味では、

誰もが尊い存在です。

これは、そのことを否定したい

という話ではありません。

ここで取り上げたいのは、

「自分は他の人たちとは違う」

「自分は上の段階にいる」

といった

無自覚な傲慢さが入り込んでくる危うさ

について、取り上げています。

これが、マトリョーシカ構造

この状態は、

まるでマトリョーシカのようです。

「もう自分は執着していないぞ」

と思っている

その感覚自体が、

「執着していない自分はすごい」

という

新たな執着になっている

ということです。

割っても割っても

同じ人形が出てくる、

あの構造です。

皮肉ですが、

執着を解こうとした結果、

別の執着が始まっている

ということがあるのです。

なぜ執着を解くはずが、新たな執着を生むのか

執着を解くはずが、

なぜ、逆にマトリョーシカのように

あらたな執着の構造に

入ってしまうのだろう。

その分かれ道は

どこで決まるのか。

私はずっと考えてきました。

結論としては、

二つの要因があると思います。

一つは、

執着を解こうとする本人の心の持ち方。

もう一つは、

それを手引きする側の在り方です。

執着を解こうとする本人の精神性の問題

もともと強い執着を抱えていた人が、

それがほどけ始めたとき、

人生が楽になったように感じて

嬉しくなるのは自然なことです。

人は誰しも、

「報われたい」

「軽くなりたい」

と常に願うものだと思うからです。

ただ、

まやかしの執着の解放(マトリョーシカ状態)と、

本当に執着が解けた状態には、

はっきりとした違いがあります。

自己神話に入るパターン

まやかしの場合、強い高揚感や

「自分は特別な体験をした」

という

選別意識が生まれます。

たとえば、こんな感覚です。

・こんな体験をしている自分は、類稀なのでは?

・自分は選ばれた人間なのではないか

問題なのは、

それが実際に稀有な体験かどうかではありません。

そこに自己神話を感じ始めること

それ自体が、問題なのです。

崇拝にすり替わっていくパターン

また、別の形で

崇拝へと入っていくケースもあります。

・すごい人に導いてもらった

・執着が解けたと認められた

・この人の言うことは絶対だ

このとき、脳内ではドーパミンが出ています。

新興宗教で

教祖を崇拝する弟子が

感じる感覚に、よく似ています。

高揚感は「目安」になる

こうした状態では、

どちらのパターンであっても、

本当に自分の人生を生きているとは

言えません。

執着を解いたつもりが

内側は高揚感でいっぱいならば

それが、

まやかしの執着の解放ではないか?と、

冷静に見極めていく必要があります。

手引きする側の精神性の問題

次に、手引きする側の精神性の問題です。

人が執着を解くとき、

禅問答ができる師と対話するのは、

大いに意味があると思います。

ですが、ここにも罠があります。

それが「どんな師か」です。

師自身に、自己神話があると危ない

問題となる典型例が、

新興宗教の教祖です。

たとえば、師自身が

「自分は神と一体だ」

「こんな能力のある自分は特別だ」

という「自己神話」や万能感を抱いたとき、

その導きには歪みが生じます。

教えの本質を観るべきである

一方、仏陀は

自分が崇拝されるような立ち位置になるのを

恐れていたとされます。

その代表的な言葉として

「指月(しがつ)」という言葉を

残しました。

愚かな者は指を観る。賢い者は月を観る。

つまり、師自身ではなく、

教えの本質を観るべきだ

という意味です。

たとえ師が人の執着を解く力を

持っていたとしても、

それを師自身がアイデンティティに

してしまった時点で、

その導き自体に、

少しずつ歪みが生じるのです。

ですから、師自身が

崇拝を求めたりする素振りがないか?

その立場をアイデンティティにしていないか?

よく見極めた方が良いのです。

弟子が見抜かなければならないこと

たとえば、師から

「ほら、私の言う通りにしたら

執着が解けただろう」

そんな態度が滲むとき。

弟子は、その圧に負け、

思考停止の崇拝状態に陥ってしまいます。

「師の言うことが正しい」

「この人の言うことを聞いて入れば大丈夫」

のように。

そうなる前に、

弟子が見抜かなければならないこと。

それは、

師自身がその自己像に

囚われていやしないか?

ということです。

師の傲慢さを見極めるポイント

もし、その師が

・精神性の高そうなことを言い

・謙虚に見え

・人格者に見えたとしても

見るべきポイントは、ここです。

意見に反対する弟子が現れたとき、

師はどう振る舞うか。

意見の中身を建設的に議論するのではなく、

・反論者の人格を否定する

・結局は言うことを聞くしかない空気を作る

このような強いコントロールがあるなら、

それはもはや「導き」ではなく、

支配と利権です。

いかにも善人そうな顔をして、

その構造の中にいる師は、実際に存在します。

弟子は、その可能性を疑う冷静さを

決して失ってはいけません。

反逆者と見なされる恐れで動けなくなる心理

とはいえ、現実には多くの弟子が

それをできません。

なぜなら、

「反逆者」と見なされることを

恐れるからです。

人には防衛本能があります。

逆らえば居場所を失う。

破門されるかもしれない。

その恐れが、

師の矛盾を見ないふりをさせます。

本当に執着が解け、

物事をフラットに見られる精神性が育っていれば、

師がおかしければ

それをそのまま認識し、指摘できるはずです。

それは師のためでもあります。

ですが、師自身が執着に溺れた場合、

そこから本人が引き返すのは非常に困難です。

それが、

人の執着を解く立場に立つ者が背負う

責任の重さです。

本当に執着が解けたときの感覚

では、

まやかしではない執着の解放とは

何でしょうか。

それは、

「自分は変わった」

という感覚自体は確かにある。

けれど、

いつ、どうやって変わったのかを、

うまく言語化できない状態です。

昔の自分が

なぜあれほど執着していたのか、

思い出せなくなる。

ただ、確実に変わっている。

人から「なんか雰囲気が変わったね」

など言われて、初めて

「ああ、本当に変わったのかもしれない」

と気づく程度です。

一方、まやかしは分かりやすい。

ここから変わった、という

高揚のフェーズがはっきりしており、

「こんな体験をしている自分はすごい」

という特別感が強くなります。

「今世、●●師に出逢えたのは、

素晴らしい出逢いでした」

のように

感謝を感じるのは良いと思いますが

そこに、

「そんな特異な出逢いをした自分は

なにか特別なのでは?」

のような自己神話を

感じている状態であれば、

それは危ういと言えます。

執着を解くという営みの陰で、

静かに顔を出すエゴ。

それがマトリョーシカ構造です。

人は間違いを繰り返しながら生きます。

その中で、

このイタチごっこのようなまやかしを

見抜く目を、少しずつ養っていくしかない

のかもしれません。

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