ZERO PERSPECTIVE ゼロの視点

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在り方を選び直す

在り方を選び直す

前の記事では、不確実性を受け入れて生きるということについて書きました。

未来がどうなるのかは分かりません。

どちらの道が正しいのかも、先には分かりません。

自分に何ができて、何ができないのかも、実際に現実の中で確かめていくしかありません。

そして、その結果まで自分の思い通りにすることはできません。

では、そのような不確実な世界の中で、私たちはどう生きていけばいいのでしょうか。

ここで大切になるのが、自分の人生を、自分自身で引き受けて生きていくことです。

自分の人生を引き受けて生きるとは

「自分の人生を引き受けて生きる」と聞くと、「私はもう、自分の人生に責任を持って生きています」と思う人もいるかもしれません。

もちろん、実際にそうして生きている人もいるでしょう。

けれど、ここでいう「自分の人生を引き受ける」というのは、もう少し根本的な意味です。

それは、不確実で、すべてを自分の思い通りにはできない世界の中で、それでも自分がどう生きたいのかを自分で決め、その選択と、その先で起きることまで含めて引き受けて生きていくことです。

ここで重要なのは、「自分の人生に責任を持つ」という言葉の中に、「だから、自分の力で人生を思い通りにしなければならない」という前提を持ち込まないことです。

自分で人生を引き受けながら、未来をコントロールしようとする。

失敗しないように正しい答えを探す。

成功するための方法を握る。

望んだ結果になるように、人や現実を動かそうとする。

それでは、これまで見てきた原理と矛盾しています。

それは、自分の人生を引き受けているようでいて、まだ「人生を自分の思い通りにしたい」というコントロールの中にいる状態です。

本当の意味で自分の人生を引き受けるということは、結果まで自分で支配することではありません。

分からないものは分からないまま、コントロールできないものには降参しながら、その中で自分が選べることについては、自分自身で選んで生きていくことです。

正解ではなく、自分がどう在りたいのか

不確実性を受け入れながら、自分の人生を引き受けて生きるということは、正しい生き方を外側に見つけることではありません。

「こう生きれば間違いない」「この考え方が正しい」「この道を選べばうまくいくはずだ」という答えを手に入れることでもありません。

むしろ、そうした答えに固執し、すがろうとすること自体が、失敗したくない、成功したい、何かを確実に得たいという、不確実性を受け入れられないところから生まれる態度でもあります。

ここまで見てきたことを本当に自分の人生の中で理解していけば、そうした「外側の正解」に従おうとしてきたことそのものが、かえって自分の人生をうまくいかなくしていたということも、少しずつ見えてきているはずです。

未来は分かりません。

他人のことも、すべては分かりません。

そして、自分自身についてさえ、人はすべてを分かっているわけではありません。

その前提に立った上で、では、自分は何を良しとするのか。

どのように生きたいのか。

いったい、何に胸を痛めるのか。

何を見たときに、「私は、こうは生きたくない」と思うのか。

何を見たときに、「私は、こう生きたい」と思うのか。

外側にある正しさではなく、自分自身の内側で実際に感じていることを基準に、自分の生き方を自分で決めていきます。

在り方とは、未来を正しく予測し、失敗しないように生きることではありません。

不確実な世界の中で、今、自分がどのように生きるのか。どのように在りたいのか。それを自分自身で選んでいくことです。

「何者か」の執着から自由になる

このように、不確実性を受け入れ、この先どうなるか分からない中で、起きることの責任も引き受けながら、何かにすがらず、自分自身で判断して生きていく。

それは、このサイトで書いている、「何者か」の執着から自由になっている状態でもあります。

そして、それは、ナラティブを握らずに生きるということでもあります。

ナラティブとは、起きている現実そのものではなく、その現実に対して、「私はこういう人間だ」「私はこういう道を生きる人だ」「この出来事にはこういう意味がある」「私はこの正しい道を進んでいる」という物語を与え、その物語を自分の人生の答えとして握っていくことです。

正しい道を選びたい。

自分の人生が間違っていないと確信したい。

自分は何者なのかを決めたい。

そうした欲求があるほど、人は、自分自身についての物語を作り、その物語に執着していきます。

それもまた、「何者か」に執着している状態です。

では、「何者か」の執着から自由になるというのは、あらゆる欲望を捨て、何にも執着しない聖人や聖者のような人間になることなのでしょうか。

そうではありません。

「欲望のない、きれいな人間になりたい」「聖者になりたい」「悟った人間になりたい」ということ自体、その根底には、そういう何者かになりたいという欲があります。

ですから、欲のない、きれいな聖者になることが、このサイトでいう自由ではありません。

原理と統合して生きる

この状態を、これまで見てきた原理から見ることもできます。

分離と統合の法則で言えば、分離が少なくなり、散らばっていたエネルギーが統合している状態です。

因果の法則で言えば、自分自身が生み出してきた負のカルマが解消されていき、同時に、日々の選択の中で正のカルマを積んでいる状態でもあります。

正負の法則で言えば、大きく一方へ偏った天秤ではなく、天秤が均衡へ戻る力を失っていない状態です。

そして天秤崩壊の原理で言えば、何か一つの理解や正しさに自分自身を固定し、天秤そのものを動かなくしてしまうのではなく、現実を見るたびに自分自身を振り返り、必要であれば、自分の見方や選択そのものを変えていける状態でもあります。

つまり、非常に自分自身の人生を自分自身で引き受けながら、同時に、外側で起きた出来事についても、すぐに意味を固定したり、ラベリングしたり、自分の理解に押し込めたりせず、そのとき目の前にあるものを、できるだけそのまま見ながら判断していく。

このサイトでいうTier4「正」の状態とは、そういう状態でもあります。

ただし、これは「ここへ到達しなければならない」という完成地点ではありません。

そこを目指そうとした瞬間、また、「Tier4になった自分」「統合された自分」「自由になった自分」という新しい何者かを作ることができてしまうからです。

外側から見ると、矛盾しているように見えるかもしれません。

けれど、それがこの状態です。

何かになることを目指さず、その時々で原理から外れていないかを見ながら、自分自身を選び直し続けていく。

それが、原理に沿って内側の秩序が整い、自分自身が原理と統合している状態です。

コントロールできないものには降参し、自分自身の領域は引き受ける

自分自身にできないことは、コントロールしません。

他人が何を選ぶのか。

社会がどう動くのか。

未来に何が起きるのか。

自分の中にどんな感情が湧くのか。

自分がやるべきことの中で、出来る限りのことはしますが、自分の思い通りにはできないものまで、コントロールしようとはしません。

その一方で、今、自分が何を選ぶのか。

何を選ばないのか。

何に時間を使うのか。

何を守るのか。

誰と関わるのか。

何を良しとするのか。

どのような生き方に心が痛むのか。

どのような生き方に心が踊るのか。

そうした、自分自身の領域については、自分自身で引き受けながら決めていきます。

ですが、自分自身の感覚さえも、すべてを思い通りにはできません。

だから、コントロールできないものには降参する。

けれど、その中で自分が何を選ぶのかについては、他人にも、社会にも、何かの教えにも、誰かの正解にも預けない。

その先に何が起きるか、不確実性を受入れた上で、自分が選びたい生き方を、自分の責任で選ぶ。

それが、自分自身の人生を引き受けて生きるということです。

生きていることそのものへ戻る

そして、この状態は、何かを成し遂げなければならない生き方でもありません。

特別な使命を見つけて生きることでもありません。

生きる意味を見つけることでも、自分の価値を証明することでもありません。

もっとシンプルなものです。

生きる。

人と関わる。

何かを感じる。

笑う。

悲しむ。

作る。

動く。

休む。

誰かを大切にする。

何かに胸を痛める。

その一つ一つを、自分自身で選びながら、血の通った命の喜びとともに生きていく。

それが、本当の意味で囚われのない、自由な心だと私は考えています。

自由とは、何でも思い通りになることではありません。

未来を知ることでも、迷わなくなることでもありません。

不確実な世界の中で、それでも自分がどう生きるのかを自分自身で選び、その人生を生き抜くことです。

そして、執着を解放していく道は、ここで終わるわけではありません。

一つの執着が解放されると、また別のものが見えてきます。

以前は「分かった」と思っていたことが、もう一度、まったく違って見えることもあります。

次の記事では、なぜ、執着の解放は一直線には進まないのか。

そして、なぜこの6つの道しるべを何度も通ることになるのかについて書いていきます。

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