分離と統合の法則とは
人は、肉体だけで存在しているわけではありません。
肉体以外にも、感情や思考など、目には見えないさまざまなエネルギーをまとっています。
それらのエネルギーが、その人の中で本来あるべきところに収まっている状態を、私は「統合」と呼んでいます。
反対に、意識や執着によってエネルギーがさまざまな場所へ分散している状態を、「分離」と呼んでいます。
エネルギーがその人の中に収まっているのか。
それとも、さまざまな場所へ分散しているのか。
私は、この分離と統合の動きを扱っており、その仕組みを「分離と統合の法則」と呼んでいます。
分離とは、具体的にどのような状態なのか
では、この統合と分離とは、具体的にどのような状態なのでしょうか。
心理学には「マインドワンダリング」という言葉があります。
これは、今やっていることとは関係のないことへ意識がそれてしまい、目の前のことに集中できなくなるような状態を指します。
これは、分離のわかりやすい例です。
本来、分離していなければ自分のことに使えるエネルギーが、さまざまな場所へ分散している状態です。
嫌な人のことを何度も考える。
まだ起きていない未来について、不安を考え続ける。
他人からどう見られているかばかり気にする。
お金のことばかり考える。
といった状態です。
これは、「こうならなければ幸せになれない」と何かに執着し、そこに意識を奪われている状態でもあります。
日常的な状態として説明するなら、このように捉えていただくとわかりやすいと思います。
エネルギーを見ると、実際に分散している
ここからは、実際に私がエネルギーを見ると、どのように見えているのかについて少し触れていきます。
エネルギーには、いくつもの階層があります。
肉体に近い層に、エーテル体があります。
人が何かに執着して、
「あの人が嫌いだ」
「明日の会議が嫌だな」
というように、その対象について繰り返し考えているとき、その人自身のエーテル体から生体エネルギーの一部が分離し、その対象や相手へ飛んでいきます。
これが、先ほどお伝えしたマインドワンダリングの状態です。
もう少し、私に見えているものを直接的な言い方で表すと、いわゆる「生き霊が飛んでいる」ように見えています。
ただ、ここで霊的な現象について詳しく掘り下げたいとは思いません。
また、ここではエネルギーの階層そのものについても詳しくは書きません。
私が「分離」と言うとき、それは実際にエネルギーが本来あるべきところではなく、さまざまな場所へ分散している状態を指しています。
内面の分離が、外側の現実に現れる
内面でエネルギーの分離が起きていると、それは外側の現実に現れます。
これは、「因果の法則」や「正負の法則」ともつながっています。
因果の法則で説明するなら、内面にある状態が「因」となり、その結果が外側の現実に「果」として現れている状態です。
そして、内面に分離がある状態とは、執着がある状態でもあります。
何かに執着することで、そこへ意識やエネルギーが向かい、分離が生じます。
これを正負の法則から見ると、天秤に偏りが生じている状態です。
因果の法則。
正負の法則。
そして、分離と統合の法則。
これらは、同じ一つの状態を違う側面から言い換えたものになります。
内面に分離がある。
そこには執着がある。
執着によって、エネルギーに偏りが生じる。
それが言葉や行動となり、因果をつくり、外側の現実に結果として現れていく。
どの角度から見ているのかが違うだけで、すべて同じことを言っています。
強い執着が、その人の人生のテーマのように現れる
その人が強く持っている執着は、現実の中に強く現れます。
その執着に関係する出来事が何度も繰り返され、まるでその人の「人生のテーマ」として浮かび上がる。
私からは、そのように見えています。
それが人間関係として現れることもあります。
仕事として現れることもあります。
お金や身体の状態として現れることもあります。
どのような場所に現れるのかは、その人が持っているカルマによって異なります。
執着が解放されると、分離が統合へ向かう
では、この分離はどうなっていくのでしょうか。
分離を生んでいるのは、執着です。
そのため、執着が解放されると、結果として分離が統合されます。
これまで人や出来事へ向いていた意識。
未来への不安に使われていたエネルギー。
「こうならなければ」という結果への執着。
そうしたものが解かれていくことで、エネルギーは分散しなくなります。
そして、そのとき必要なことへ、自然に意識とエネルギーが向くようになります。
そうすると、人は次第に「大いなる流れ」に沿って進むようになります。
統合の先にある、大いなる流れ
大いなる流れとは、人間がコントロールしなくても、原理に沿って自然に進んでいく流れです。
これは、選ばれた人だけが乗れる特別な流れのようなものではありません。
分離が統合へ向かうことで、自然に立ち上がってくる状態です。
執着があるとき、人は大いなる流れに乗れません。
「絶対にこうしたい」
「こうでなければならない」
「これは失いたくない」
というように、自分が望む方向へ現実を無理に動かそうとします。
ですが、分離が統合されていくと、無理に現実を動かそうとしなくても、そのとき必要な方向へ自然と進んでいくようになります。
因果の法則。
正負の法則。
分離と統合の法則。
そうした原理に逆らわず進んでいる状態を、私は「大いなる流れに沿っている」と表現しています。
大いなる流れは、ナラティブではない
ただし、大いなる流れについては、勘違いされやすいことがあります。
「大いなる流れ」と聞くと、
「こんな流れに乗れている私は特別なんだ」
「だから私は守られている」
「これから先も安泰なんだ」
というように捉えてしまう人がいます。
これは、大いなる流れそのものではありません。
その流れに対して、自分なりの物語をつくっている状態です。
私は、これを「ナラティブ」と呼んでいます。
ナラティブとは、大いなる流れに自分のアイデンティティや意味づけを結びつけ、そこに新たな執着を握っている状態です。
そして、その執着自体が、また新しい分離になります。
大いなる流れそのものは、もっと淡々としています。
そこに「私は特別だ」という強い高揚感があるわけでもありません。
また、恐怖に突き動かされて、
「こちら側にいなければならない」
「これを信じなければ危険だ」
「この流れから外れたら救われない」
というような、ハルマゲドン的な構造でもありません。
こうした構造については、別の記事「マトリョーシカ構造とは」でも詳しく扱っています。
大いなる流れとは、何か特別な物語の中に入っていくことではなく、原理に沿って淡々と進んでいくことです。
分離から統合へ
執着が解き放たれると、これまであちこちへ分散していたエネルギーが、余計な場所へ向かわなくなります。
その人自身の中へ収まり、そして大いなる流れに沿って自然に進めるようになっていきます。
このような方向を「統合」と呼んでいます。
ただし、統合とは、何かが完成することではありません。
統合はゴールではない
もし統合をゴールのように捉えているとすれば、それは非常に平坦な理解です。
統合すれば、すべてがわかる。
統合すれば、もう迷わなくなる。
統合すれば、人格が完成する。
そのような構造ではありません。
人間は、何かを達成して、完成させて、ゴールへ向かうという考え方を好むのだと思います。
学べば、わかる。
努力すれば、できるようになる。
積み上げていけば、いつか完成する。
そのような直線的な理解です。
ですが、統合とは、むしろその逆に近いものです。
統合すればするほど、「自分はわかっていた」と思っていたものが崩れていきます。
知っていると思っていたことが、実はほんの一部しか見えていなかったのだと気づきます。
そして、何かを獲得してゴールへ進んでいるというより、また始まりに戻っていくような感覚になります。
難しい話をしているように見えるかもしれません。
ここでお伝えしたいのは、統合とは、完成した自分になることではないということです。
自分がいかに無知であるかを知っていく。
そして、「わかった」と固定していたものから自由になっていく。
執着しないとは、そういうことでもあります。
統合とは、その繰り返しです。
そして、この状態は、何かに囚われ続ける必要のない、とても自由な状態です。
私は、人がそのような自由な状態へ向かっていくことを後押ししたいと思い、この活動をしています。
分離と統合の法則とは、執着が解放され、分離が統合へ向かい、大いなる流れに沿いながら、自分の無知を知り、何かを固定することのない自由な心へ向かっていく、その全体像です。
