大いなる流れに乗った先にある自由と責任

③降参(サレンダー)

「大いなる流れ」シリーズのご紹介

この記事は、
「大いなる流れ」全5回シリーズの第4回です。

シリーズ全体はこちら▼

自由には、責任が伴う

ここまで、
流れに乗るとはどういうことかを
お話してきました。

ここで大事なのが、

自由には、責任が伴います。

つまり、
何かがうまくいかなかったとき、

「流れがこうしたんだから、
これは私のせいじゃない」


という話ではありません。

一見、

「いやいや、
そんなの当たり前でしょ」

と思われた方もいるかもしれません。

ですが、
「外から入る歪み」がある場合、

この「自由」と「責任」の関係そのものが、
分かりにくくなっていることがあります。

詳しくはこちら▼

「流れに導かれたから、責任はない」という理解

人によっては、
「大いなる流れに乗る」というと、

どうしても、
イメージとして、

「流れに導かれた」

のような、
キラキラとしたイメージが、
先行してしまうことがあります。

その延長で考えていると、

うまくいかなかったときに、

「いや、流れがそうさせたのだから、
私には責任がないでしょ」

「だって、こうなるとは、
思わなかったから」

という理解に、
なってしまうことがあります。

もちろん、

そんなはずはない

というのは、

あえて説明するまでもないほど、
当たり前のことかもしれません。

けれど、

人は、文章を、
自分の読みたいように読んでしまうことがあります。

同じ言葉が書かれていても、

その人が、
どのような物事の見方をしているのかによって、

受け取る意味は、
歪んで伝わっていくことがあります。

このことについては、
こちらの記事でも書いています▼

だからこそ、

「流れに乗る」という言葉についても、
誤解のないように、

ここでは、
あえてはっきりと書いておきます。

当サイト「ゼロの視点」で、
伝えている自由とは、

責任を伴うものです。

私が「自由」や「流れに乗る」という話をするときの
大切な前提として、
ここで共有しておきたいと思います。

責任が伴うとは、どういうことか

できる・できないや、
その結果は、

自分一人の力だけで
決められるものではない。

という話を、こちらの記事で書きました↓

だからといって、

流れに乗った先で
何が起きても、

自分には責任がない、
ということにはなりません。

何をするのか。

何をしないのか。

どこまでやるのか。

どんなリスクを取るのか。

そして、

その選択には、
どんな責任が伴うのか。

それを決めてきたのは、
まぎれもなく、

自分です。

だからこそ、

流れに乗ろうが、なんだろうが、

自分が選び、
自分が行動したことで生まれた結果には、

当然の責任が生じます。

だから、

「流れに乗る」という言葉を、

自分のやりたいように、
好き勝手に生きるための理由にするのは、


私が伝えている
「大いなる流れに乗る」とは違います。

「流れに乗っているんだから」
「今は、こっちへ行く流れだから」

と言って、

自分が選んだことへの責任まで
放り出してしまう。

それは、
自由に生きているのではなく、

ただ自分の行動を
「流れ」という言葉で、

正当化しているだけです。

自由であることと、責任を負うこと

何を選ぶのかも、

どう生きるのかも、

その人の自由です。

誰かに、

「こう生きなければならない」

と決められるものではありません。

でも、

自由に生きるということと、

その選択に責任を負わなくていいということは、
まったく別の話です。

自分で選ぶ。

自分で行動する。

そして、

そこから生まれた結果には、
自分の責任が生じる。

大いなる流れに乗るというのは、

その責任から逃れるための言葉ではありません。

むしろ、

誰かに決めてもらわず、
自分で選べるからこそ、


その責任もまた、
自分にある。

自由と責任は、

切り離せるものではないのだと、
私は思っています。

そして、

自分で選び、
その責任を引き受けたとしても、

この先、何が起きるのかは、
誰にも分かりません。

では、

そんな不確実な人生の中で、
本当に自由であるとは、どういうことなのでしょうか。

次の記事では、

原理から見えてくる「本当の自由」について、
お話します。

続きの記事はこちら▼

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