「何者か」になろうとすることをやめても、執着は終わらない|マトリョーシカ構造

④自己価値への執着

人は「何者か」になろうとする

人は、

「自分は何者なのか」

という問いを持つことがあります。

そして、

自分が何者なのかを
確かなものにするために、

さまざまなものを
必要とすることがあります。

お金。

肩書き。

地位。

名声。

実績。

「こんなに稼いだ」

「こんな実績を出した」

「私は成功者だ」

「私は〇〇会社の誰々だ」

そうやって、

目に見えるものによって、

「私はこういう人間だ」

という自分を
確かなものにしようとする。

ここで起きていることは、

肩書きや実績を
持っていること自体が
問題なのではありません。

それらによって、

「自分には価値がある」

「自分は確かな存在である」

と、

自分自身を
確かなものにしようとする。

これは、

「自己価値の執着」

と深く関わっている構造です。

自己価値の執着については、
こちらの記事で詳しくお話しています▼

「何者でもなくていい」も、反対側の執着になり得る

では、

肩書きや実績を手放して、

「もう何者かにならなくていい」

と思えたら、

何者かの執着は
終わったのでしょうか。

そうとは限りません。

ここは、

とても大切なところです。

それまで、

「何者かでなければならない」

と思っていた人が、

さまざまな経験を経て、

「もう何者でもなくていいんだ」

と思う。

すると、

それまでの苦しさから
解放されたように感じることがあります。

けれど、

今度は、

「何者でもない自分」

を握り始めることがあります。

肩書きなんていらない。

成功なんていらない。

何者かになろうとする必要なんてない。

ただ自然体でいればいい。

そうして、

「何者かであること」を退け、

「何者でもないこと」を
新しい正解にしてしまう。

これは、

何者かの執着が
なくなったのではありません。

執着する対象が、
反対側へ移っただけです。

「何者か」と「何者でもない」の間を移動する

何者かになりたい。

成功したい。

自分の価値を証明したい。

そう思っていた自分を手放した。

そして今度は、

何者かになろうとする人を見て、

「まだそんなものに
執着しているんだ」

と思う。

成功を求める人を見て、

「そんなものに
意味なんてないのに」

と思う。

自分はもう、

そんな世界から
降りた人間なのだと思う。

けれど、

そこに、

「何者であるか・ないかを気にしている構造」

というものが残っているのであれば、

まだ同じ構造の中にいます。

何者かであること。

何者でもないこと。

一見すると、

正反対です。

けれど、

どちらかを正しいものとして握り、

もう一方を退けているという意味では、

同じ分離の中にあります。

マトリョーシカのように、別の「私」が現れる

私は、

執着には、

マトリョーシカのような構造がある

と考えています。

一つの執着を手放したと思ったら、

その奥から、

また別の形をした執着が
現れることがあります。

「成功した私」

を手放した。

すると、

「成功なんて必要としない私」

が現れる。

「特別な私」

を手放した。

すると、

「特別である必要なんてないと分かった私」

が現れる。

「何者かである私」

を手放した。

すると、

「何者でもない私」

が現れる。

外側の人形を一つ外したら、

中から、

少し違う姿をした
同じ構造が出てくる。

だから、

一度、

「もう何者かにならなくていい」

と思えたからといって、

そこで終わりではありません。

むしろ、

何者かになろうとする執着が、
別の形へ移っただけではないか。

そこを見る必要があります。

「何者かになること」に執着しない状態とは

では、

「何者かになること」に執着しない状態とは、

どのような状態なのでしょうか。

それは、

「何者でもない自分」になることではありません。

何かを持つことも、

何かを持たないことも、

それによって、

「自分は何者なのか」を
確かなものにする必要がない。

私は、

こちらの方が、

何者かの執着がない状態に
近いと考えています。

だから、

何者かの執着がなくなった人が、

必ず肩書きを捨てるわけでも、

仕事を辞めるわけでも、

成功を求めなくなるわけでもありません。

外側に何を持っているかではなく、

それによって、
自分自身を定義しようとしているのか。

そこの構造が違います。

何かを得ようとする力みがなくなったとき、
内側ではどのような感覚になるのか。

私自身が感じている
「統合後の内的感覚」については、
こちらの記事で詳しく書いています▼

「在り方」は、作るものではない

本来の在り方とは、

「こういう自分になろう」

と決めて作るものではありません。

息をするのに、

理由はいりません。

歩くときに、

なぜ足を交互に出しているのかを
考える必要もありません。

ただ、

自然とそうしている。

人の在り方にも、

それに近いものがあるのだと思います。

何者かになろうとして
自分を作るのでもない。

何者でもない人になろうとして
自分を作るのでもない。

自分の中にある分離が
少しずつ統合されていく中で、

結果として、
その人本来の営みが残っていく。

そこには、

「私はこういう人間です」

と、

自分自身を
強く定義し続ける必要がありません。

外側にあるものが、人を飲み込むわけではない

だから、

お金や肩書き、

地位や名声、

成功そのものが
悪いわけではありません。

最初から、

地位も名誉も
持っている人がいます。

努力して、

後から成功した人もいます。

そして、

それらを持ちながら
自分を見失わない人もいれば、

それらによって
自分を確かなものにしようとして、

飲み込まれていく人もいます。

違いは、

持っているものそのものではありません。

「それによって、
自分は何者なのかを確かめたい」

という執着があるかどうかです。

だから、

何かを捨てれば
自由になるわけでもありません。

捨てたあとに、

「それを必要としない私」

を握れば、

また同じ構造が始まります。

何度でも、ゼロの視点へ戻る

何者かになろうとしていた自分に
気づいた。

それを手放した。

そして、

「もう私は、
何者かになろうとしていない」

と思った。

けれど、

その自分を、

また新しい「私」として
握っているかもしれない。

だからこそ、

「やっと、何かを掴んだ」

と思った時ほど。

「やっと、執着が解けた」

と思った時ほど。

「私は結局、
何も分かっていないのかもしれない」

という場所へ、

自ら立ち返ることが
大事なのかもしれません。

分かったと思っては、

「何を分かったつもりに
なっていたのか」

に戻ってくる。

ぐるぐると
同じことを繰り返しては、

また、
ゼロの視点に戻る。

そんな風に、

「自分は、何かを
分かったつもりになっていただけなのかもしれない」

そう思えた時、

人は少しだけ、

前より色眼鏡が減り、

それまでより少し、

物事をあるがまま
見られるようになるのかもしれません。

「ゼロの視点」とは何かについては、
こちらの記事で詳しくお話しています▼

タイトルとURLをコピーしました