なぜ手放さなくてはならないのか、意味が分からなかった
覚醒が始まった当時、
私は、
激しい混乱の中にいました。
それまで経験したことのない感覚が、
半年以上、
止まることなく続いていたからです。
ここに留まっていてはいけない。
すべてを手放さなくてはならない。
やりなさい。やれば分かる。
そういった感覚でした。
そして当時、
私が望んでいたのは、
ただ、
家族と穏やかに暮らすことでした。
夫もいる。
幼い子ども達もいる。
家もある。
仕事もある。
資産もある。
申し分のない、穏やかな生活がある。
なぜ、
それを自ら手放さなくてはならないのか。
そのように、
まったく理解できませんでした。
この感覚は一体何なのか
そして何より、
私を混乱させていたのは、
「この感覚は一体何なのか。」
ということでした。
私は、
本当に正気なのか。
この感覚は、
信じていいものなのか。
それとも、
頭がおかしくなってしまったのか。
一体、何が正しいのか。
24時間、
夢の中をも追ってくる、
その強い感覚に、
私は次第に、
一体何が正しいのか。
何を信じればいいのかさえ、
分からなくなっていきました。
私は「正解」を探していた
夫に何度も相談しました。
病院にも行きました。
心理カウンセリングも受けました。
私は、「この感覚の正体」を、
突き止めようとしていたのです。
「正体が分かれば、対処法が分かるはず。」
そう思っていたのだと思います。
ですが、
どこにも、
納得できる答えはありませんでした。
今振り返ると、
当時の私は、
ずっと、
「正解」を探していたのだと思います。
この感覚は、
正しいのか。
間違っているのか。
信じるべきなのか。
信じてはいけないのか。
私は、
この感覚の中に、
何か答えがあるのではないか。
そう思いながら、
「これは一体何なのか。」
という問いの中を、
ぐるぐると回り続けていました。
夫が持ち込んだ、まったく違う視点
そんなある日、
半年ほど苦しみ続けていた私に、
夫は言いました。
「ここで止まっていても何も分からない。」
「取りあえず感覚通りにやってみて、
確かめてみたらどうか。」
「どうなるか、
事実を見なくては、
何も判断材料がない。」
私は、
その言葉にはっとしました。
それまでの私は、
ずっと、
「この感覚は正しいのか。」
という問いの中にいました。
ですが、
夫が示したのは、
まったく別の視点でした。
今ここで、
正解を出す必要はない。
現実に何が起きるのかを見て、
そこから理解することでしか分からないことがある。
私は、
それまで自分が立っていた場所とは、
まったく違う場所から、
物事を見たような気がしました。
答えは、現実の中にある
その時、
私の中で、
何かが変わりました。
「この感覚は何なのか。」
「正しいのか。」
「間違っているのか。」
その答えを、
自分の中だけで、
見出そうとすることをやめました。
どうしたって分からないのだから、
現実に何が起きるのかを、
見るしかない。
やってみて、
その結果を見て、
そこから理解するしかない。
そう思いました。
分かっても、すぐには選べなかった
もちろん、
それで恐れがなくなったわけではありません。
幼い子ども達を置いて、
家を出ることは、
最後まで、
受け入れ難いことでした。
ですが、
どれほど考えても、
答えは出ない。
そして、
何もせずに同じ場所に留まり続けても、
半年以上続いている状況は、
何も変わっていない。
ならば、もう腹を括るしかない。
そして、
夫と子どもを残し、
家を出るという選択をしました。
正解を先に決めない
今振り返ると、
この体験を通して、
私は一つの大切なことを
理解したのだと思います。
それは、
現実を見る前に、
正解を決めようとしない。
ということです。
人は、
何か分からないことが起きると、
「これは正しいのか。」
「間違っているのか。」
「どちらを選べばいいのか。」
そのように、
先に答えを出そうとします。
ですが、
まだ起きていないことの答えを、
頭の中だけで、
完全に知ることはできません。
自分の感覚だけを見ても、
誰かに答えを求めても、
考え続けても、
分からないことがあります。
なぜなら、
現実に何が起きるのかを見なければ、
分からないことがあるからです。
だから、
答えを先に決めて、
その答えに現実を合わせるのではなく、
まず、
現実に何が起きているのかを見る。
そして、
そこから理解する。
私は、
そのプロセスの大切さを、
この体験を通して、
身をもって理解しました。
そして、
これは今振り返って思うことですが、
そもそも、
「何が正しいのか」を探し続けること自体が、
一つの執着だったのだと思います。
十七歳の経験の、その先にあったもの
振り返ると、
この体験は、
十七歳の頃の経験と、
つながっている部分があります。
十七歳の私は、
大学受験の日、
自分ではどうにもならない現実を前に、
最後まで抵抗しました。
そして最後に、
人生には、
自分の力では、
どうにもならないことがある。
そう受け入れました。
あの時に理解したのは、
現実への抵抗をやめること
だったのだと思います。
そして今回、
私は、
抵抗をやめた先にあるものを
理解しました。
ただ、
現実に抵抗しないだけではない。
自分の中で先に答えを決めず、
現実に何が起きているのかを観て、
そこから理解していく。
ということです。
十七歳の時には、
まだ、
そこまでは分かっていませんでした。
ですがあの時、
自分の思い通りにならない現実に
降参した経験があったからこそ、
今回も最後には、
「分からないものは、
現実の中で確かめるしかない。」
という考えを、
受け入れることができたのかもしれない。
そのように、
振り返ると思います。
現実をあるがままに観るということ
現在、
私は物事を理解するとき、
できる限り、
答えを先に置かないようにしています。
「きっとこうだ。」
「これは正しい。」
「これは間違っている。」
そう結論を決めてから現実を見ると、
人は、
その答えに合うものだけを見てしまう。
そんな風に、
認知に歪みが生じることがあるからです。
だから、まず観る。
今、実際に何が起きているのか。
そして、
自分の願望や恐れによって、
現実を歪めて見ていないか。
答えを先に決めるのではなく、
現実を観て、
そこから理解していく。
それが、
現在の私が大切にしている、
「現実をあるがままに観る」
という姿勢の原点になっています。



