「何者か」への執着は、特別になりたいだけではない
「何者か」への執着というと、
「すごい人になりたい」
「特別な存在になりたい」
「選ばれた人になりたい」
といったものを想像するかもしれません。
ですが、
それほど単純な形で現れるものだけではありません。
「この苦しみには意味があるはず」という執着
たとえば、
苦しいとき。
「この試練には、何か意味があるはずだ。」
「この経験によって、私はどこに向かっているのだろう。」
「これだけ苦しんだのだから、この先には“何か”がなければならない。」
「これだけのことを経験して、何にもならないなんて納得できない。」
こうした気持ちも、
「何者か」への執着と関係しています。
未来にある「何か」と交換しようとする
苦しみや試練を経験したとき、
その苦しみを、
ただ苦しみとして終わらせることができない。
これだけの試練を苦しんだ。
だから、この先には何かがなければならない。
この経験によって、
私は何かを手に入れるはずだ。
そして、
その「何か」によって、
この苦しみは意味のあるものになる。
というものです。
つまり、
苦しみを未来の「何か」と取引しようとしているのです。
苦しみを、あるがまま受け入れられない
もちろん、
経験の意味を考えること自体が、
すべて執着というわけではありません。
ここでいう「何者か」への執着とは、
苦しみや喪失を、
未来の「幸せ」によって
意味のあるものにしなければ、
受け入れられない状態
です。
苦しみを苦しみとして、
あるがまま受け入れられないことです。
苦しみに意味を求めることで、歩ける時もある
このように、
「何者か」への執着には、
さまざまな形があります。
そして実際に、
自分が経験している苦しみに、
何か意味があると思うことで、
前に進める時期も、
人生にはあると思います。
実際に、
私自身にも、
そのような時期がありました。
「この苦しみも、いつか何かにつながる。」
そう思うことで、
歩き続けることができる時もあります。
それもまた、
人生の中では、
必要なのかもしれません。
いつか、苦しみを未来と交換しなくてもよくなる
けれど、
人生を歩いていく中で、
いつか人は、
苦しみを、
未来の何かと交換しなくてもいい。
ただあるがまま、
生きればいい。
そう気付く時が、
来るのかもしれません。
この苦しみに、
何か意味がなければならない。
この喪失によって、
何かを得なければならない。
そうしたものを、
少しずつ手放していく。
そして、
苦しみや喪失を、
未来の何かによって意味のあるものにしようとするのではなく、
ただ、
自分の人生に起きたこととして受け入れていく。
そんなこともまた、
人生のどこかでは、
必要になるのかもしれません。



