自分の道は、選んで見つけるものではない|「どれを選ぶか」という発想では見えてこないもの

③降参(サレンダー)

「大いなる流れ」シリーズのご紹介

この記事は、
「大いなる流れ」全5回シリーズの第2回です。

シリーズ全体はこちら▼

身の程を知れ、という話ではない

たとえば、
婚活をしている女性がいて、

「すごいスペックの男性と結婚したい」

と言っている。

それに対して、

「あんたは選ぶ立場じゃないよ」
「身の程を知れ」

と言われるような話を、
聞いたことがあります。

私がこの記事で伝えたいことは、

そのような、
「身の程を知れ」という話ではありません。

その人の能力や価値、
置かれている条件などを見て、

「あなたには、それを選ぶ資格や可能性がないでしょ」

と、
外側から序列や線引きをするかのような。

私が問うているのは、
そういう話ではありません。

「自分が正解を選び取る」という立ち位置に居ないか?

この記事は、

むしろ、

人生において、

自分がたくさんの可能性を俯瞰して、

その中から、

最も優秀なものや、
自分に最適なものを見極め、

自分が正解を選び取ることができると思っている。

その、

「自分は、正解を選び取る立場にある」という前提そのもの

を、
問う話です。

「どれを選ぶか」という発想では、見えてこない

たとえば投資・トレードには、

買いもあれば、
売りもあります。

買いには、

なべ底、
N字転換などがあり、

売りには急落など、

いろいろな手法や形があります。

そうすると人は、
まず、

「この中で、どれが一番成功確率が高いのだろう」

「期待値が高いのは、どれだろう」

「自分に合うのは、どれだろう」

と考えます。

でも、

本当にトレードがうまくいくときというのは、

そんなふうに、

「あれこれ色々と選べる立場に、自分はいないのだ」

と、理解したときだと、

私は思っています。

自分を知れば、残っていくものがある

自分の性格。

怒りっぽいのか、
そうではないのか。

短気なのか、
気が長いのか。

反射神経はいいのか、
悪いのか。

そういう自分の特性というものが、
誰にでもあると思います。

だから、

実際にやって、
突き詰めていくと、

「自分にできるのって、
結局これしかないじゃん」

となっていく。

そんなプロセスで、

1個か2個に、
絞られていくのです。

積極的な「取りに行く」姿勢ではない

ここで、
違うのは、

そのプロセスです。

数あるものの中から、

1個か2個の優秀な手法を自分が、選んだり

自分に合うものを、見つけ出したのではありません。

「自分には、これしかできなかった」

というものが、

ただ、

そこに残っていただけです。

積極的な、
「取りに行く」「見つける」という姿勢ではありません。

余計なことをしなくなる、というかできなくなる

だから、
ある意味、

消極的と言えば、
そうなのかもしれません。

選択肢がたくさんあって、

その中から、
自分が好きなものを自由に選んでいる、

という感覚ではないから、

自分は色々できなくて、
不器用だなあと感じたり、

実際に、
不便に感じることは沢山あります。

でも、

「これしかない」と分かるからこそ、
余計なことをしなくなる

というか、
もうできなくなる

のだと思っています。

「もっといい方法が、
ほかにあるんじゃないか」

「本当は、
こっちの方がうまくいくんじゃないか」

「もっと自分に合うものが、
どこかにあるんじゃないか」

そうやって、

まだ見つけていない何かがあるはずだと、
あちこち探し回らなくなる。

だって、

いろいろやって、
現実の中で確かめてきた結果、

自分には、これしか残らなかったのだから。

そうして、
余計なことをしなくなっていくのだと思います。

握って執着するものではない

でもそれは、

「やっと見つけた」
「自分にとっての正解はこれだった」

と縋るものでも、
握るものでも、

成功法を見つけた!

と大喜びするものでもありません。

これが正解?

と言われれば、

いや、

うまくいくのかどうかは、
分からない。

それが「正解」なのかどうかも、
分からない。

でも、

今の自分に残っているものはこれ。

だったら、
それをやるしか、

選択肢って、
残されてないじゃん。

という、

なんとも、
低い温度感のもの、

だと思います。

「自分に合う正解」を探す前提では、見つからない

これは、
トレードだけの話ではありません。

例えとして分かりやすいので、
トレードの話を出しただけです。

私は、

人生のあらゆる物事が、
そうなのだと思っています。

仕事でも、
人との関わり方でも、
何かを続けていく方法でも、

私たちは、

「どれが成功しやすいだろう」
「その中で、自分に合うものは、どれだろう」
「自分にとっての正解は、何だろう」

と、
積極的に取りに行く姿勢で、考えます。

でも私は、

この問い自体が、
少し違うのだと思っています。

どこかに、

「自分にぴったり合う正解」

というものがあって、

数ある選択肢の中から、
それを見つけ出す。

その前提で、
物事を見ていること自体を

疑う必要があるのかもしれません。

聖杯を見つけるのではなく、現実の中で自分を理解していく

前の記事では、

「できる」「できない」を、
あなたが決められるわけではない

という話を書きました。

今回の話も、
そこにつながっています。

自分には、
何ができるのか。

何ができないのか。

それは、

自分というものを、
現実の中で忖度なく見ていけば、

少しずつ、
分かってくることだと思います。

自分の性格。

自分の能力。

自分が続けられること。

どうしても、
できないこと。

自分だけではどうにもならない、
環境や条件。

いわば、
今の自分が持っている手札。

そういうものを、

自分の理想や願望に合わせるのではなく、

ただ、そのまま見ていく。

私自身が、
「今あるカードを使って進むしかない」
と感じるようになった頃のことはこちらに書いています▼

すると、

できないものは、
できないものとして見えてくるし、

残るものは、
残っていきます。

でも、
そこでまた、

「これこそが、
自分にとっての正解の道だったんだ」


と、

答えを握ることもできません。

それが正解なのか。

この先もうまくいくのか。

ずっと続いていくものなのか。

明日はどうなるのか。

そんなことは、
やっぱり分かりません。

前の記事で書いたように、

できるのか、できないのかを、
自分が妄想で決めることはできない。

だったら、

ここでも同じです。

自分が、

「正解を知っている側」

に立たない。

分からないものは、
分からないまま見る。

自分というものも、
現実というものも、

できるだけ、
自分の想像で決めつけずに見る。

そして、

その中で、
見えてきたものに従っていく。

結局、
現実にできるのは、

そのくらいなのではないか

と、私は思っています。

続きの記事はこちら▼

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