何者かにならないとは|人は「ただ自分であること」に耐えられない

⑥どう在るか

人は「何者か」になろうとする

人は、何者かになろうとします。

「自分とは何者なのか」

それを証明するために、
たくさんのものを必要とします。

お金。
肩書。
地位。
名声。

「こんなに稼いだ」
「こんな実績を出した」
「成功者だ」
「◯◯会社の誰々だ」

そうやって、
自分の価値を「結果」で確認しようとする。

でも、それは「自分そのもの」ではありません。

それは外付けのハードウェアであって、
“内部のOS”ではありません。

「在り方」とは

本来、
人に備わっている「在り方」とは、
もっと自然なものです。

何者かになろうとしない状態とは、
ただ「営む」という感覚に近いのかもしれません。

息をするのに、理由はいりません。

「なんで呼吸してるの?」

そう聞かれても、

「気づいたらしていた」

それだけです。

歩く時に、なぜ足を交互に出すのか。

そんなことを考えながら歩いている人はいません。

「足を交互に出したいからです!」

とはならない。

ただ自然に、そうなっている。

本来の自分の在り方も、それに近い。

動機が先にあるわけではない。

強い意志があるわけでもない。

「私はこれになるぞ」
「お金持ちになるぞ」
「成功するぞ」

という力みでもない。

ただ、最初から
そういう営みの力学が働いている。

でも、
その理由は自分でもよく分からない。

空気のように自然で、
近すぎるから見えない。

だから人は問います。

「私は何者なのだろう」と。

人は「ただ自分であること」に耐えられない

でも本当は、何者でもない。

息をするように。

歩くように。

そう在るのが自然だから、そう在るだけ。

本来の自分の在り方とは、そういうもの。

だから「なんでそれをやっているの?」と聞かれても、

「分からない。それが、自分にとって自然だから」

としか言えないような。

目的なんてわからない。

ただ、最初からそういう営みの力学が働いているだけ。

でも人は、
目的がなく「ただ自分である」ということに、不安を感じる。

目に見えた、「確かな何か」が欲しくなる。

だから、自分を証明したくなる。

「稼げる私は、ホンモノだ」

「勝ち続けているから、自分は特別だったんだ」

「年収がこんなに増えた。私の価値が証明された」

そうやって、ハードウェアで自分を定義し始める。

でもそれでは、また同じ苦しみに戻る。

執着を手放したあとに始まる「新しい私」

だから、
執着を降ろす。

力を抜く。

自然体な在り方を求める。

そしてやっと、

「もう何者かにならなくていい」

そう思えたあと。

その結果として、
現実が上手くいくようになることがあります。

良い人間関係。

起業がうまくいく。

トレードで勝てるようになる。

すると今度は、

「力を抜いた私こそホンモノだった」
「執着のないワタシだからこそ、上手くいった」

という、
新しい「何者か」が始まる。

まるで、割っても割っても
中から同じ人形が出てくる、
マトリョーシカです。

外側を外しても、
また中から別の「私」が出てくる。

人は、何度も同じ構造を繰り返します。

だから、
何者かになることをやめても、
まだ終わらない。

その奥に、

「何者かでありたい自分」

が顔を出す。

「何者かになれた感覚」に飲み込まれる

人は
「実際に何を持っているか」
で左右されるのではなく、

「それによって自分が何者かになれる」

と、
無意識にすがった時に、
飲み込まれていきます。

最初から、
地位も名誉もを持っている人がいます。

あとから、努力で成功した人もいます。

そして、
最初からだろうが後からだろうが、

自分を見失わなかった人もいれば、
逆に、飲み込まれ壊れていく人もいます。

だから、

持っている「モノ」そのものではない。

自分の中に「不足感」によって、
その構造に飲み込まれていく。

どこまでも、そいういうこと。

ゼロの視点

私が見てきた上では、

人は、
執着を手放していけば、
上手くいく流れに乗ることが出来ると思います。

でも、また

「こんな道を歩んできたすごい自分」

と、
また新しい「私」を握り始めてしまう。

だからこそ、

「やっと、何かを掴んだ」と思った時ほど。

「やっと、執着が解けた」と思った時ほど。

「私は結局、何も分かっていないのかもしれない」

という場所へ
自ら立ち返ることが
大事なのかもしれません。

分かったと思っては、

「何を分かったつもりになっていたのか」

に戻ってくる。

ぐるぐると同じことを繰り返しては、
またゼロの視点に戻る。

そんな風に、

「自分は、何かを
分かったつもりになっていただけなのかもしれない」

そう思えた時、
人は少しだけ、
前より色眼鏡が減り、

それまでより少し、
物事をあるがまま
見られるようになるのかもしれません。

タイトルとURLをコピーしました