「本当は自分が神だった」というナラティブ|神を内面化するときに生まれる「何者かの執着」

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はじめに

この記事は、
「精神世界とナラティブ」シリーズの第5回です。

シリーズ一覧はこちら▼

前回は、

「魂を成長させなければならない」

というナラティブが、

「もっと成長した自分」
「もっと高い意識に到達した自分」

をつくり、

「私はまだ足りない側」という不足感や、


逆に「成長した私」という強い優越感

を生み出すことがある。

という話を書きました。

今回は、

スピリチュアルの世界で語られることのある、

「本当は、自分自身が神だった」

というナラティブと執着の関係について
見ていきます。

「本当は自分が神だった」という考え方

スピリチュアルの世界には、
次のような考え方があります。

神は自分の外側にいる存在ではない。

本当は、
私たち自身が神である。

私たちは、
神から分離した存在ではない。

それを忘れているだけであり、

本当の自分を
思い出していく。

そのような考え方があります。

これは一見すると、

外側にいる神から
自由になり、

自分自身へ
力を取り戻していく考え方にも見えます。

つまり、

シリーズ第3回で書いた、

外側にいる神という権威に、
自分の人生を預けてしまう構造とは、

まったく反対に見えます。

第3回|自分の人生を外側の権威に預けてしまう構造

ただ、

ここにも、

「何者かの執着」

が生まれることがあります。

外側にいた「神」が、自分の内側へ移動する構造

第3回の記事では、

神を、

自分よりも上にいる
絶対的な存在として捉えることで、

「神は正しい」

「私は神に従わなければならない」

という関係が
生まれることについて書きました。

では、

その神を
自分の外側からなくして、

「本当は私自身が神だった」

とすれば、

その構造から
本当に自由になれるのでしょうか。

必ずしも、
そうとは限りません。

なぜなら、
今度は、

「神である本来の自分」

という新しい自己像が
生まれることがあるからです。

本当の私は、
もっと自由な存在である。

本当の私は、
もっと高い意識にいる。

本当の私は、
すべてを知っている。

今の私は、
それを忘れているだけ。

だから、

本当の自分を
思い出さなければならない。

そうなれば、

外側にいた神が、

「本来の自分」

という形で、

自分の内側へ
移動しただけになります。

外側の権威を、自分自身と同一化しただけ

ここで、
もう少し構造そのものを
詳しく見てみたいと思います。

第3回で説明した、

「神は自分よりも上にいる」

という世界観では、

神と自分は、
分かれていました。

神は上。
自分は下。

神は知っている。
自分は知らない。

神は完全。
自分は不完全。

そのように、

世界を二つに分けて
認識しています。

では、

その状態から、

「本当は、私自身が神だった」

と認識を変えたら、

この分離そのものが
なくなるのかというと、

そう、単純な話ではありません。

それまで、

自分の外側に置いていた

「完全なもの」
「すべてを知っているもの」
「大きな力を持っているもの」

という神の概念を、

今度は、

「それが本当の私なのだ」

と、

自分自身に
重ねることは、

つまり、

外側にあった権威を
手放したというよりも、

その権威を内面化し、
自分自身と同一化している。

ということです。

「私は神側である」という新しい分離

そこには、

依然として、

神と人間。

目覚めている人と、
目覚めていない人。

分かっている人と、
分かっていない人。

本来の自分に戻れた私と、
そこから離れている、
まだ理解していない人たち。

という、

二つに分ける物差しが残っています。

そして、

その中で、

「私は神側である」

という側に
自分を置くことで、

安心することがあります。

私は、
ただの人間ではなかった。

私は、
本当は特別な存在だった。

私は、
本当はすべてを知っていた。

そういう自己認識によって、

「私は何者なのか」

という不安に、

一つの答えを
与えることができます。

「神である自分」というアイデンティティへの癒着

しかし、

その答えを
自分自身の存在価値と結びつけ、

それがなければ
自分を保てないのであれば、

今度は、

「神である自分」

という新しいアイデンティティに
べったりと癒着していきます。

外側の神に
自分を預けていたところから、

神という概念を
自分自身へ取り込んだだけ。

それによって、

自分が何者なのかを
確定しただけ。

形は変わっています。

でも、

「神」という概念によって
自分の存在意義を支える構造そのものは、
残ったままです。

だから、

外側にいた神を
自分の内側へ移しただけでは、

「何者かの執着」という
自分を縛る構造の中にいます。

「私は神だ」が、優越感を生むこともある

そして、

反対側もあります。

「私は、
本当の自分を思い出した」

「私は目覚めた」

「私は、
この世界の仕組みを分かっている」

と感じたとき、

そこに、

強い優越感が
生まれることがあります。

まだ目覚めていない人。

まだ分かっていない人。

低い意識にいる人。

自分が神であることを
忘れている人。

そのように、

自分と他人を
分け始める。

すると、

「神である自分を思い出した私」

という自己認識が、

自分の根幹を支えるものに
なっていきます。

そして、

その自己像を
手放せなくなります。

なぜなら、

それを手放せば、

自分が何者なのか、
分からなくなってしまうからです。

ここにも、

「何者かの執着」

があります。

不足感と優越感は、物差しが変わっていない

まだ目覚めていない。

まだ本来の自分へ
戻れていない。

まだ神である自分を
思い出せていない。

そう感じれば、

不足感や劣等感が生まれる。

反対に、

私は目覚めた。

私は分かっている。

私は本来の自分へ戻った。

そう感じれば、

優越感が生まれることがある。

一見すると、

正反対の状態に見えます。

でも、
どちらも、

「自分がどこまで本来の自分へ近づいているのか」

という同じ物差しで、

自分を測っています。

そして、

その物差しを使っている限り、

上か下か。

分かっているか、
分かっていないか。

目覚めているか、
目覚めていないか。

という物語から
離れられません。

外側の神から
自由になったはずなのに、

今度は、

「神である自分」

という新しい檻の中へ
入ることがあります。

神を外側から内側へ移せば、自由になるわけではない

だから私は、

「神は外側にはいません。
あなた自身が神なのです」

という答えは、

外側の神を信じることと、
構造的にはなんら変わらないのではないか。

そのように考えています。

それでは、

答えを一つから
別のものへ変えただけだからです。

外側に神を置き、
その神に従う。

自分自身を神だと考え、
神である自分を
思い出そうとする。

一見すると、
正反対です。

でも、
どちらも、

「私は、この世界の中で何者なのか」

という問いに、

「神」という概念を使って
答えを与えています。

そして、

その答えによって
自分自身を定義し、

べったりと癒着し、

その自己像を
手放せなくなったとき、

それは、

「何者かの執着」

になります。

なぜ、「神である自分」という答えが必要なのでしょうか

ここで私が
問いかけたいのは、

なぜ、
その答えが必要なのでしょうか。

ということです。

自分が神だと分かれば、
何が安心するのか。

本当の自分を思い出せば、
何が満たされるのか。

「私は目覚めた」と思えたとき、
自分について、
何を確認できるのでしょうか。

そして、

その答えがなくなったとき、

何が怖いのでしょうか。

そこを見ていくと、

神について考えていたはずのところから、

いつの間にか、

「私は何者なのか」

という問いへ
戻ってくることがあります。

「何者か」にならなくても、人生はただそこにある

神に従う自分。

魂を成長させる自分。

目覚めていく自分。

本来の自分を
思い出していく自分。

神である自分。

どの物語を生きるのか。

それは、
自由に選ぶことができます。

そして、

その世界観によって
幸せに生きられるのであれば、

それを誰かが
否定する必要もありません。

ただ、

その物語がなければ、

自分が何者なのか
分からなくなる。

どう生きればいいのか
分からなくなる。

だから、

その答えを
手放すことができない。

もし、
そうなって、

不足感や優越感の中にいるのであれば、

それは本当に自分も人も幸せにするのでしょうか。

そして、

あなたを自由にするために、

本当に必要なのは、
「自分は何者なのか」という答えなのでしょうか。

それとも、

その答えがなくても、

自分で感じ、

自分で考え、

自分で選びながら、

泣いたり、

笑ったりしながら、

この人生を
全うしていくことなのでしょうか。

私は、

そう、
問いかけています。

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