はじめに
この記事は、
「精神世界とナラティブ」シリーズの第3回です。
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前回は、
見えない世界を理解するために、
人間がつくる
「物語(ナラティブ)」
について書きました。
ナラティブによって
自分と世界との関係を理解し、
その世界観を通して
現実を見るようになる。
そして、
その世界観を
手放せなくなったとき、
執着が生まれることがあります。
今回は、
そのナラティブが、
自分よりも上にある、
「神の意思」
「正しい道」
「従うべきもの」
のように、
強い権威になっていくプロセス
そして、
そうなったとき、
人生にどのような影響が起きるのか
について書いていきます。
「神の意思」が、自分より上の答えになるとき
たとえば、
「神には、
私には分からない大きな計画がある」
「神は、
私が進むべき道を知っている」
「自分の考えではなく、
神の意思に従うことが大切だ」
という考え方があります。
この世界観の中では、
神は、
自分よりも正しい答えを知っている存在
になります。
すると、
人生で何かを選ぶときにも、
「私がどう生きたいのか」
という、
主体的な選択ではなく、
「神は、私に何を望んでいるのだろう」
という前提が
生まれることがあります。
人生の大きな決断。
たとえば、
仕事を変えるのか。
誰かと別れるのか。
何かを始めるのか。
どちらへ進むのか。
そういった、
本来、
自分自身が考え、
選択するはずだったことに、
「神の意思」
という答えが
入り込むようになります。
「神に言われたから」が、自分の選択を正当化することがある
さらに、
「これは神の意思だ」
という確信が強くなると、
次のような現象が起きることがあります。
それは、
自分が選んだことを、
自分よりも大きな存在によって
正当化しようとする働きです。
「これは神が作った流れだ」
「神がそうしろと言っている」
「これは私の意思ではない」
「私はただ、
与えられた役割を果たしている」
そう考えれば、
自分自身が
その選択をしたという感覚は、
薄くなっていきます。
しかし実際に、
実際にその行動を
選んでいるのは自分です。
誰かから、
「神がこうしろと言っているぞ」
と言われたとしても、
それらを、
「自分が従うべきもの」
として採用し、
その行動を選択したのは、
自分自身です。
「神に言われたから」
という理由によって、
あなたの人生の責任が
消えるわけではありません。
恐れから「正しい人生」を選ぶようになる
そして、
神という存在が、
自分よりも上位にいる
絶対的な権威になると、
そこに、
「強い恐れ」が生まれることがあります。
間違った道へ
進んではいけない。
神の意思に
背いてはいけない。
魂を
汚してはいけない。
今世で
課題を終わらせなければならない。
悪いカルマを
つくってはいけない。
地獄へ
行ってはいけない。
すると、
自分の人生を
どう生きるのかという選択が、
「私はどう生き、どう在りたいのか」
ではなく、
「どうすれば間違えないのか」
を基準にしたものへ
変わっていくことがあります。
一見すると、
とても「正しく生きようとしている」ように
見えるかもしれません。
でも、
その選択の根底にあるものが、
「間違えたら、バチがあたる」
という恐れであれば、
人生は、
自分の意思によって
選んでいくものではなく、
正解を外さないために
怖がりながら生きるもの
になっていきます。
「神の御心」は、とても強い権威になる
これは、
個人の人生だけの話でもありません。
「これは神の御心である」
「神がそうしろと言っている」
「これは聖なる使命である」
という言葉は、
非常に強い力を持ちます。
なぜなら、
その言葉を
絶対的なものとして受け入れれば、
人間自身が、
「それは本当に
やっていいことなのか」
と考える必要が
なくなるからです。
自分たちが正しい。
相手が間違っている。
自分たちは
神の側にいる。
だから、
相手を排除してもいい。
攻撃してもいい。
従わせてもいい。
歴史の中でも、
このように、
神や宗教的な大義が、
争いや暴力を
正当化するために、
使われてきたことがあります。
ここで起きているのは、
「自分たちは正しい側にいる」
という二元論です。
そして、
その正しさの根拠が、
人間を超えた
絶対的な存在に置かれるほど、
その正しさを
疑うことは難しくなります。
「神に従う」と「サレンダー」は違う
スピリチュアルな文脈では、
サレンダー(降参)
という言葉があります。
神の采配に委ねる。
降参する。
大きな流れに任せる。
私はこのサイトでも、
大いなる流れについて
書いています。
ただ、
私が捉えているサレンダーは、
外側にいる何者かへ
自分の意思を明け渡し、
無責任に生きることではありません。
「私は考えません」
「神様が決めてください」
「言われたとおりに生きます」
ということではありません。
むしろ、
自分では
どうすることもできないものを、
どうにかしようとすることを
やめる。
自分が握っていた
コントロールを手放す。
そのうえで、
今、
自分にできることを
ちゃんと自分で選ぶ。
私が捉えている
サレンダーは、
そういうものです。
最後まで、選んでいるのは自分自身
ここは、
とても大切なところです。
どれだけ、
「神に言われた」
「守護存在から
メッセージを受け取った」
「これは運命だと感じた」
と思ったとしても、
最後に、
その言葉をどう受け取り、
何を選び、
どう行動するのかを
決めているのは、
いつでも、
必ず、
自分自身です。
だから、
見えない世界から
何かを受け取ることと、
自分の人生の
意思決定を預けることは、
絶対的に、
分けて考える必要があります。
私自身も、
見えないものから
何かを受け取ることもあります。
それでも、
私は、
「こう言われているから、
あなたはこうしてください」
と、
その人の人生の答えを
決めるために、
それらを使っているわけではありません。
何かを知ることで、
それまで見えていなかったものが
見えることがあります。
違う角度から
現実を捉えられることもあります。
そのうえで、
あなたは、どうしたいのか。
最後に残るのは、
そこです。
自分の人生を、外側の権威へ預けない
神を信じること。
見えない存在を
信じること。
そこから
何かを受け取ること。
この記事で
問題にしているのは、
それら「そのもの」ではありません。
私が見ているのは、
自分と神との関係によって、
自分の人生の主導権を
どこへ置いているのか。
ということです。
神が正しい。
だから従う。
神に認められる
自分にならなければならない。
正しい道から
外れてはいけない。
その世界観を
手放せなくなれば、
それ自体が
とても強い執着になります。
そして、
その執着が強くなるほど、
自分自身が、
本当は、
何を感じているのか。
何を望んでいるのか。
何を選びたいのか。
それよりも、
「何が正しいのか」
を外側へ
探しに行くようになります。
あなたの人生を生きるのは、
あなた自身です。
何かを信じていてもいい。
何かを頼ってもいい。
何かから
言葉を受け取ってもいい。
それでも、
最後に何を選ぶのかという責任まで、
外側の何かへ預けることは、
絶対にできないのです。
自分と神との関係を
見直すということは、
神や信じるべきなにかを、
捨てることではなく、
自分の人生を、
自分自身の手に戻していくことでもある。
私は、
そう考えています。
次の記事では、
「魂を成長させなければならない」
というナラティブが、
人を「まだ足りない自分」という檻に閉じ込める構造
そこについて
見ていきたいと思います。
