はじめに
この記事は、
「精神世界とナラティブ」シリーズの第4回です。
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前回は、
「神の意思」
「正しい道」
「従うべきもの」
というナラティブが
強い権威になったとき、
自分の人生の選択を
外側へ預けてしまうことがある、
という話を書きました。
今回は、
精神世界やスピリチュアルで
よく語られる、
「魂の成長」
という概念と執着の関係について見ていきます。
魂の成長という概念
人は、
魂を成長させるために
生まれてきた。
人生で起きる困難には
意味があり、
それを乗り越えることで
魂は成長していく。
そのような考え方があります。
この考え方によって、
苦しかった出来事を
受け止められるようになったり、
前へ進めるようになったりする人も
いると思います。
ただ、
それが、
「私は、魂を
成長させなければならない」
になったとき、
そこには、
一つの執着が生まれることがあります。
「成長しなければならない」の前提にあるもの
「魂を成長させなければならない」
という言葉を、
そのまま見てみます。
成長しなければならない。
ということは、
今の自分には、
まだ足りないものがある。
未熟なところがある。
克服しなければならない
課題がある。
もっと学ばなければならない。
もっと高いところへ
進まなければならない。
という前提が
生まれます。
もちろん、
実際に、
人は経験によって
変化し、成長します。
それまで
分からなかったことに
気づくこともあります。
何かを手放したり、
以前とは
まったく違う生き方を
選ぶこともあります。
私がここで
見ているのは、
そのような
「変化することそのもの」ではありません。
「今の自分では足りないから、
もっと成長しなければならない」
という
「不足を前提にした構造」
です。
「いつか完成する理想の自分」を追い続ける
魂の成長が
人生の目的になると、
現在の自分とは別に、
「もっと成長した自分」
という理想が、
無意識につくられます。
もっと執着を
手放した自分。
もっと波動の高い自分。
もっと統合された自分。
もっと愛のある自分。
もっと高い意識に
到達した自分。
そして、
今の自分と、
その理想の自分を比較します。
すると、
今の自分は、
いつも、
「まだそこへ到達していない自分」
になります。
成長できていないと感じたり、
失敗したりすると、
「私は、
ちゃんと前に進めているのだろうか」
と不安になる。
周りの人が
優秀に見えて、
自分だけが
取り残されているように感じる。
苦しい出来事が起きれば、
「私は、
まだ何を学ばなければならないのだろう」
と考える。
そうやって、
成長しようとすればするほど、
自分を常に、
「まだ足りない側」
へ置き続ける構造となります。
「魂の成長」という物差しは、優越感も生む
この構造は、
それだけではありません。
同時に、
強い優越感も生みます。
「以前より成長した私」
「ここまで分かるようになった私」
「もう、
あの頃の私とは違う」
と感じたとき、
今度は、
強い優越感に酔ってしまうことがあるのです。
すると、
他人のことさえも、
その世界観で見るようになります。
あの人は、
自分よりも
「まだ分かっていない人」。
自分よりも
「意識の低い人」。
自分よりも
「魂が未熟な人」。
そのように、
常に自分との比較をしながら、
自分を中心とした「物の見方」へと、
偏っていきます。
つまり、
下を見れば、
「私はまだ足りない」
上へ進んだと感じれば、
「私はあの人たちより進んでいる」
となる。
どちらも、
「魂がどこまで成長しているのか」
という同じ物差しの中で、
自分や他人を
測っている状態です。
「成長したい」が、新しい執着になる
これは、
私がこのサイトで
何度も書いている、
マトリョーシカ構造
にもつながります。
マトリョーシカ構造について▼
苦しみから
自由になりたくて、
執着を手放そうとする。
すると今度は、
「執着のない自分になりたい」
という、
新たな執着が生まれる。
分離に気づいて、
統合へ向かおうとする。
すると今度は、
「統合された自分でなければならない」
という執着が生まれる。
魂を成長させようとすることも
同じです。
成長そのものを
追いかけ始めれば、
「成長した自分になりたい」
という新しい執着が
生まれることがあります。
そして、
その執着を持っている限り、
どれだけ進んでも、
劣等感か、優越感か。
そのどちらかで生きる世界観となっていきます。
なぜなら、
人生が、
何かを乗り越えることで、
「以前より成長した自分」を確認する
物語になっているからです。
成長が感じられないと不安になる。
「自分はちゃんと進んでいるのか?」と。
だからまた、
次の「足りないところ」を探す。
この繰り返しそのものが、
自分が何者なのかを確認するための
仕組みになっていく。
成長を目指しているようで、
実際には、
「成長し続ける自分」
という物語を、
手放せなくなっていく。
そこにもまた、
「何者かの執着」があります。
「自分の魂を成長させるために世界がある」という、自己中な物語
そして、
もう一つ、
私がこの世界観について
見ていることがあります。
「魂は成長するために生まれてきた」
というナラティブを
強く持つようになると、
人生で起きる
さまざまな出来事が、
「自分の魂を成長させるために起きている」
と理解されることがあります。
嫌な人と出会った。
「この人は、
私に何かを学ばせるために現れた」
誰かに傷つけられた。
「この経験も、
私の魂の成長に必要だった」
誰かを助けた。
「この人との出会いによって、
私は成長することができた」
誰かのために
何かをした。
それさえも、
「この経験を通して、
私の魂も成長した」
と理解する。
もちろん、
経験から何かを学ぶことも、
人との関わりによって
自分が変わることも、
普通にあります。
ただ、
あらゆる出来事を、
「自分の魂を成長させるために
起きていること」
として理解するようになると、
いつの間にか、
世界の中心に
「自分の魂の成長」が置かれます。
つまり、
とても自己中になってしまうのです。
他人との出会いも。
誰かの苦しみも。
誰かに何かをすることも。
自分が傷つけられたことも。
すべてが、
「自分を成長させるためのもの」
として回収されていく。
極端に言えば、
結局、全部自分のためです。
一見、
「人のために生きる」
「人に愛を与える」
「誰かを救う」
という言葉を使っていても、
その奥で、
それらすべてが、
「自分の魂を成長させるため」
という目的に
つながっているのであれば、
本当に見ているのは、
相手なのでしょうか。
それとも、
「成長していく自分」
という物語なのでしょうか。
この記事は、
そこを問う記事です。
成長することと、「成長しなければならない」は違う
人は生きる中で、
さまざまな経験をし、
精神的に成長していきます。
その経験によって、
それまで見えなかったものが
見えるようになることもあります。
過去には
許せなかったことが、
いつの間にか
どうでもよくなることもあります。
ずっと握っていたものを
手放すこともあります。
そうやって、
結果として、
以前とは
まったく違う自分に成長することがあります。
それを、
「魂が成長した」
と表現する人も
いるでしょう。
私は、
その言葉を
問題にしているわけではありません。
ただ、
成長できていないと、
不安になる。
成長した自分を確認できると、
安心する。
そして、
「成長した私」と
「まだ成長していないあの人たち」
というように、
成長という物差しで、
自分や他人を見るようになる。
そうして、
「成長し続けなければならない」
という物語の中で
生きることは、
本当に、
自分や周り人たちの幸せにつながっているのでしょうか。
「では、成長しなくてもいい」という話ではない
ここまで読むと、
今度は、
「では、
成長なんてしなくてもいいんですね」
という、
逆側の答えを
置きたくなるかもしれません。
でも、
それでは、
「成長しなければならない」
の反対側に、
「成長する必要はない」
という正解を
わかりやすく置いただけです。
私が見ているのは、
その二択ではありません。
その世界観で生きる限り、
永遠に見えてこないものがある。
一度、その視点を手放してみてはどうか。
これは、
そういうお話です。
あなたは「何になるため」に生きているのか
もし、
もっと成長しなければ。
もっと手放さなければ。
もっと高い意識へ
行かなければ。
もっと統合しなければ。
そう考え続けているのであれば、
一度、
その根底を
見てみてもいいのではないでしょうか。
なぜ、
「成長しなければならない」というストーリーを握っているのか。
成長した先で、
何者になりたいのか。
何になれば、
「これでいい」と思えるのか。
そして、
その答えを
追い続けた先の完成した自分は、
今の自分を、
どのような存在として
見ているのか。
魂の成長という
ナラティブそのものが、
人を苦しめるわけではありません。
それが、
「成長しなければならない」
という執着になったとき、
人はいつまでも、
「今の自分では、まだ足りない」
という檻の中で
生き続けることになります。
私が見てほしいのは、
魂がどこまで
成長しているのかではありません。
なぜあなたは、
今の自分では足りないと
思っているのでしょうか。
ということです。

