はじめに
この記事は、
「精神世界とナラティブ」シリーズの第2回です。
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前回は、
神や魂、見えない世界について
どのような答えを持つかによって、
私たちは、自分と世界との関係をどのように捉え、
どのような世界観の中で生きるのか。
そして、
そこにどのような執着が
生まれることがあるのか。
その入り口について書きました。
今回は、
その執着が生まれるプロセスで作られる、
「物語(ナラティブ)」
について書いていきます。
「物語(ナラティブ)」とは
ナラティブとは、
簡単に言えば、
人間が物事を理解するためにつくる
「物語」や「意味づけ」
のようなものです。
私たちは、
そのままでは捉えにくいものに、
名前をつけたり、
意味を与えたり、
「これはこういうものだ」
という説明をつくることで、
その概念を理解しようとします。
そして、
その説明が、
いつの間にか
自分にとっての「事実」になり、
自分と世界との関係や、
人生の選択にまで影響するようになることがあります。
この記事で見ていきたいのは、
そのようなナラティブがつくられ、
それが執着へと変わっていく構造です。
人間は、分からないものを「ナラティブ」にして理解する
私たちは、
そのままでは
捉えきれないものを、
自分たちが理解できる形へ
置き換えることがあります。
名前をつける。
姿を与える。
性格を与える。
意思を与える。
役割を与える。
そして、
「これはこういう存在である」
という説明の中で
理解します。
たとえば、
神を
人間のような姿で描く。
見えない存在を、
自分をいつも見守り、
必要なときにサポートしてくれる
何かとして理解する。
善を司る存在と、
悪を司る存在に分ける。
そうすることで、
目には見えず、
そのままでは捉えにくいものを、
人間の認識の中で
扱えるようになります。
そして、
同時に、
その説明を通して、
「自分は、どのような世界に生きているのか」
という「世界観」も
つくられていきます。
たとえば、
自分を見守り、
正しい方向へ導いてくれる存在がいる。
というナラティブを
信念として持てば、
人生で何かが起きたとき、
「これは何を
教えようとしているのだろう」
「私はどちらへ
導かれているのだろう」
と考えるようになることがあります。
最初は、
見えないものを
理解するためにつくられた説明だったはずです。
しかし、
その説明を通して
現実を見るようになると、
ナラティブは、
自分と世界との関係を決めるもの
に変換されていきます。
原理に「人間のような意思」を与えると、ナラティブが生まれる
これは、
私がこのサイトで書いている
「原理」についても起こります。
たとえば、
内面に分離があれば、
その分離が
現実にも現れる。
その結果として、
本人にとって
望ましくない出来事が
起きることがあります。
そして、
その出来事をきっかけに、
それまで自分では
気づいていなかったことに気づき、
生き方が変わることもあります。
この一連の流れは、
私がこのサイトで
「負のカルマ」という言葉で
説明している概念です。
それを見ると、
人間には、
「何かが自分に
気づかせようとしている」
ように見えることがあります。
さらに、
そこへ意味を加えていくと、
「神様が、
私に必要な試練を与えた」
「魂を成長させるために、
この出来事が起きた」
「大いなる存在が、
正しい方向へ導いてくれている」
という大きな物語になります。
そして、
その物語を
世界の仕組みとして受け入れれば、
今度は、
「自分を成長させ、
どこかへ導いている何者かがいる世界観」
の中で生きることになります。
苦しいことが起きれば、
「これは何を
学ぶためなのだろう」
と考える。
何かを失えば、
「まだ私には
学ばなければならないことがあるのだろう」
と考える。
人生の選択に迷えば、
「私はどちらへ
導かれているのだろう」
と考える。
こうして、
出来事を理解するためにつくられた
ナラティブが、
自分の人生をどう理解し、
どう選択するのかを決めるもの
になっていくことがあります。
そして、
そのナラティブを
手放せなくなったとき、
それ自体が
新たな執着になります。
私が認識しているもの
では、
私自身は、
世界をどう認識しているのか。
私が認識しているのは、
ただ原理が働き、
それによって現象が起きている
ということだけです。
世界全体を見ると、
一定の原理に沿って
物事が動いています。
その結果として、
人が自分自身に気づいたり、
それまでの生き方が崩れたり、
大きく変化したりすることもあります。
実際にセッションを通して、
何度も見てきました。
その全体を見ると、
世界そのものに
何らかの意思があるように見えることがあります。
ただ、
私が認識しているのは、
どこかに
人間のような人格を持った存在がいて
「この人には、
そろそろこの出来事を起こそう」
「この人には、
この試練を与えよう」
と、
一人ひとりの人生について
采配を決める何者かがいて、
決定している世界ではありません。
原理が働き、
それによって現象が起きている。
私が認識しているのは、
ただ、
そのような世界です。
一方で、
その大きな動き全体を見ると、
そこに意思があるようにも見えます。
しかし、
それを人間が普段使っている
「意思がある」
という言葉だけで説明すると、
私が認識しているものから
少しずれてしまいます。
ナラティブが執着に変わるとき
ナラティブによって
世界を見るようになると、
やがて、
自分は何者なのか。
どう生きるべきなのか。
何を選ぶべきなのか。
何を信じるべきなのか。
という、
自分自身の人生にまで
影響するようになります。
だから私は、
ナラティブそのものよりも、
そのナラティブによって、
自分と世界との関係を
どのように決めているのか。
そして、
そこにどのような執着が
生まれているのか。
そこを見ることが
大事なのではないかと思っています。
次の記事では、
こうして生まれたナラティブが、
「神の意思」
「正しい道」
「従うべきもの」
として強い権威を持ったとき、
人の選択や生き方に
どのような影響を与えるのか。
そこについて
書いていきます。
