「何者か」の執着

⑤「何者か」の執着

「何者か」の執着とは

人は、ときに、

「私は何者なのだろう」

という問いを持ちます。

ここでいう「何者か」とは、

自分の性格や、
能力や、
肩書きを知ることではありません。

また、

人より優れているのか。
特別な存在なのか。
価値のある人間なのか。

という問いとも、
少し異なります。

むしろそれらは、

「私には価値があるのか」

という

「自己価値の執着」と、
深く関わっています。

自己価値の執着とは▼

一方、

「何者か」の執着で問われているのは、

もっと根源的なことです。

私はなぜ、ここにいるのか。

なぜ私は、この人生を歩んでいるのか。

この人生は、どこへ向かっているのか。

私は、この世界とどのような関係にあるのか。

私は何者なのか。

そうした、

自分という存在と、
この世界や人生との関係を、
理解しようとする問い

です。

「私は何者なのか」は、自分だけを問う言葉ではない

「私は何者なのか」

という言葉だけを見ると、

自分探しのように、
聞こえるかもしれません。

私はどんな人なのか。
何が得意なのか。
何に向いているのか。
本当の自分とは何なのか。

もちろん、

そうした問いとして、
現れることもあります。

けれど、
さらに深いところでは、

人が知ろうとしているのは、
自分自身だけではありません。

私は、
何の中で生きているのだろう。

なぜ、
この世界に存在しているのだろう。

なぜ、
生まれ、

そして、
なぜ死ぬのだろう。

私は、

この人生の中で、
どこへ向かっているのだろう。

つまり、

自分という存在が、
この世界や人生と、
どのようにつながっているのか。

その関係を、
理解しようとしているのです。

人は昔から、

この問いを、

宗教や哲学、
思想や精神世界など、

さまざまな形で問い続けてきました。

「神」
「真理」
「原理」
「運命」
「人生の目的」

使われる言葉は違っても、

その奥にある問いは、

よく似ています。

自己価値への執着とは、問いが違う

この問いは、

「私には価値があるのか」

という問いとは異なります。

自己価値への執着で問われるのは、

私は、
価値のある存在なのか。
Am I worthy?

という問いです。

一方、

「何者か」の執着で問われるのは、

私は何者なのか。
Who am I?

なぜ、
ここにいるのか。
Why am I here?

に近いものです。

この人生は、
何なのか。

もちろん、

人の中にある執着は、
完全に別々に存在しているわけではありません。

「特別な人になりたい」

という思いの中に、

自己価値への執着と、

自分が何者なのかを知りたい思いが、

同時に含まれていることもあります。けれど、

何を確かめようとしているのかを見ると、

その中心は違います。

特別であることによって、

自分には価値があると確かめたいのであれば、

中心にあるのは、
自己価値への執着です。

一方、

なぜ私はこの人生を生きているのか。

この世界の中で、
私は一体何なのか。

それを知ろうとしているのであれば、

そこには、
「何者か」への問いがあります。

人生が大きく揺れたとき、この問いは強くなる

普段は、

それほど強く意識していなくても、

人生が大きく揺れたとき、

この問いが突然、
前に出てくることがあります。

大きな喪失。

挫折。

別れ。

環境の変化。

それまで大切にしていたものを、
失ったとき。

それまで信じていた人生の前提が、
崩れたとき。

人は、

ただ、

「つらい」

だけでは終われなくなることがあります。

なぜ、
私はこんな経験をしたのだろう。

私は、
一体どこへ向かっているのだろう。

この人生は、
どうなっていくのだろう。

この経験は、

私の人生にとって、
何だったのだろう。

そうして、

目の前で起きていることを、

人生全体の中に、
位置づけようとします。

「この苦しみには意味があるはず」と考えること

「何者か」の執着は、

ときに、

苦しみの意味を求める形でも現れます。

例えば、

「この試練には、何か意味があるはずだ。」

「この経験によって、私はどこかへ向かっているはずだ。」

「これだけのことを経験したのだから、この先には何かがあるはずだ。」

というように。

人は、

大きな苦しみを経験したとき、

その苦しみを、

ただ、

起きた出来事として、
受け入れることが難しい場合があります。

だから、
この経験には意味がある。

この先で、
何かにつながる。

いつか、
何かを得られる。

そう考えることで、

今の苦しみを、
人生の中に置こうとします。

そして実際、

そのような意味づけによって、

歩き続けられる時期もあります。

「いつか、
この経験が何かにつながる。」

そう思うことで、

今日を生きられることもあります。

ですから、

経験に意味を見出そうとすること自体が、

問題なのではありません。

意味が分からなければ受け入れられない

ただ、

その問いが、

いつの間にか、

答えを持たなければ、
人生を受け入れられない状態

になることがあります。

この苦しみには、
意味がなければならない。

この喪失によって、
何かを得なければならない。

この経験の先には、
何かが待っていなければならない。

そうでなければ、

自分が歩いてきた人生を、
納得できない。

そのとき、

人は、

苦しみそのものだけではなく、

「この人生が何なのかを理解しなければならない」

という問いにも、
縛られ始めます。

つまり、

問題は、

人生について考えることではありません。

答えを探すことでもありません。

答えがなければ、
自分の人生を生きられなくなることです。

「本当の自分」を見つければ終わるわけではない

だから、

「何者か」の執着が解けるということは、

「本当の自分」を発見することではありません。

私はこういう人間だった。
このために生まれてきた。
人生の使命はこれだった。

そうした答えを得ることで、

一時的に安心することはあります。

けれど、

その答えを、
絶対的なものとして握れば、

今度は、
その答えが揺らいだときに、

また、自分が何者なのか、
分からなくなります。

何者かの執着との向き合いへ

だから私は、

「本当の自分を思い出しましょう」

ということや、

「本当の自分など存在しない」
「人は何者でもない」

といったことを、

「私は何者なのか」

という問いへの答えとして、
お伝えすることはありません。

なぜなら、
どちらも、

「私は何者なのか」

という問いに対して、

新たな答えを握ることになるからです。

ゼロの視点で向き合うのは、

その答えが何なのか、
ということではありません。

なぜ、

「私は何者なのか」

という問いに、
答えを求め続けているのか。

なぜ、

自分の人生や、
自分が経験してきたことに、

答えを必要としているのか。

そうした、

「何者か」への執着そのものと、
向き合っていきます。

ゼロの視点では、

何かの答えによって、
自分や人生を定めることから離れ、

物事をあるがまま見て生きていきたい方へ、

穏やかに生きていくための、
一対一のサポートを行っています。

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