「大いなる流れ」シリーズのご紹介
この記事は、
「大いなる流れ」全5回シリーズの第5回です。
シリーズ全体はこちら▼
不確実な人生の中で、何を拠り所に生きるのか
ここまで、
「大いなる流れに乗る」
ということについて、
シリーズで4回にわたって
書いてきました。
最後にお話したいのは、
その先に見えてくる、
「本当の自由」についてです。
大いなる流れに乗ったからといって、
人生が、
うまくいく保証はありません。
自分なりに現実を見て、
できることをして、
残ったものを選んだとしても、
その先に何が起きるのかは、
分かりません。
では、
そんな不確実な人生の中で、
私たちは、
何を拠り所に生きればいいのでしょうか。
今回は、
ここまで「大いなる流れ」について
お話してきた最後に、
原理から見えてくる、
「本当に自由である」ということの意味。
そして、
そこから見えてくる、
不確実な人生の中で、
人は何を拠り所に生きていけばいいのか。
そこまで、
お話していきます。
責任を負えば、うまくいく?
前の記事では、
自由には、責任が伴う
という話を書きました。
自分で何をするのかを選び、
自分で行動する。
そして、
そこから生まれた結果には、
自分の責任が生じる。
仮に失敗しても、
「だって、流れに乗っていただけだから」
「流れのせいで」
という言葉で、
その責任まで
なくなるわけではありません。
前の記事はこちら▼

そして、
ここでもう一つ、
大切なことがあります。
それは、
自分で選び、
その責任をきちんと負うと覚悟したからといって、
その選択が、
「正解」になるわけではない
ということです。
つまり、
うまくいく保証はありません。
どれだけ考えても、
どれだけ慎重に選んでも、
真面目に、
自分にできることをしても、
その先に何が起きるのか。
そして、
うまくいくのかは、
やっぱり、
誰にも分かりません。
流れに乗ろうがなんだろうが、この世は不確実
大いなる流れに乗ったって、
思い通りにならないことは、
たくさんあります。
自分では、
どうにもならないことも起きます。
予想もしていなかったことが起きて、
前に進めなくなることもある。
反対に
自分では想像もしていなかった方向へ、
物事が動いていくこともあります。
私自身、
大いなる流れに乗る中で、
そういう経験を、
何度もしてきました。
そして、
その中で、
いろいろなことを考え、
今の「ゼロの視点」に至っています。
大いなる流れに乗ろうが、
どこまでいっても、
この世は、不確実なのです。
「大いなる流れに乗れば、
うまくいく」
という保証が、
あるわけではありません。
大いなる流れを知ったからといって、
この先、
何が起きるのかが
分かるようになるわけでもない。
どの選択が正しいのか、
その先に、
どんな結果が待っているのか。
それはやっぱり、
分からないままなのです。
失敗したくないなら、何もしなければいいのか
不確実なことは、いやだ。
確実に手に入れたい。
成功したい。
報われたい。
恥をかきたくない。
傷つきたくない。
だから、
何もしない。
それでも、
いいのかもしれません。
私は、
「失敗を恐れず、
勇気を出して挑戦しましょう」
と言いたいわけではありません。
挑戦する人生の方が良いとか、
挑戦しない人生は悪いとか、
そんな話でもありません。
何をするのかも、
何をしないのかも、
その人の自由だからです。
ただ、
何もしなければ、
「失敗しない、正解だけの人生」
が手に入るのかといえば、
それすら、
誰にも分かりません。
何かをした人生と、
何もしなかった人生。
どちらが正しかったのかなんて、
比べることさえできないのです。
そもそも、人生に「成功」「失敗」という評価を下せるのだろうか
さらに言えば、
そもそも、
何が「成功」で、
何が「失敗」なのか。
その評価さえ、
私たちは、
確定することができるのでしょうか。
「あの選択は失敗だった」
と思っていたことが、
ずっと先になって、
かけがえのない宝になることがあります。
反対に、
「あのとき正しい選択をした」
「自分は成功した」
と思っていたことが、
突然、
覆ることだってあります。
何をもって、
成功とするのか。
何をもって、
失敗とするのか。
その評価自体が、
人生の中で変わることさえある。
だとしたら、
人生の途中にいる人間が、
自分や他人の人生の
ほんの一部分を切り取って、
「これは成功」
「これは失敗」
「これが正しい人生」
「これは間違った人生」
と、
評価を下すことなんて、
できるのでしょうか。
その先に、
何が起きるのかも分からない。
今起きていることが、
この先、
どんな意味を持つのかも分からない。
それなのに、
まるで、
その先まですべて知っているかのように、
人生を評価し、
裁こうとすること自体が、
そもそも、
とても傲慢なことなのではないでしょうか。
「分からない」に、降参する
ここまで考えていくと、
私には、
結局、
一つのところしか
残らないのです。
分からないものは、
分からない。
どの道が正しいのか。
この選択が、
何を生むのか。
今起きていることに、
どんな意味があるのか。
自分の人生が、
この先どうなっていくのか。
そんなことを、
全部分かってから
生きることなんてできません。
原理を知っても、
大いなる流れに乗っても、
そこは変わりません。
だから私は、
「分からない」ということに、
降参していくしかないのだと思っています。
世界を、
今、自分に見えているものだけで、
すべて分かったと思わない。
自分のものの見方が、
世界のすべてだと思わない。
人生を、
自分の思い通りに
確定させようとしない。
分からないものを、
分かったことにしない。
ただ、
分からないものを、
分からないまま、
あるがまま見る。
分からないから、原理を見る
では、
何が正しいのかも、
この先、
何が起きるのかも分からない中で、
私たちができることは、
何なのでしょう。
そこにただ流れているのが、
原理です。
自分で何かを選べば、
そこから、
何かが起きます。
思っていた結果になることもあれば、
ならないこともある。
ときには、
幸せになろうとして選んだことによって、
逆に傷ついたり、
苦しい思いをすることもあります。
でも、
実際にその経験をしたからこそ、
それまでの自分には、
見えていなかったことが見えてくる。
だからこそ、
それまでとは違う自分で、
また、
次を選ぶことができる。
また何かが起きる。
そこで、
また何かを知る。
つまるところ、
原理って、
そういうことなんだ、
というお話です。
人は、
生まれて、
生きて、
選んで、
何かが起きて。
泣いて、
笑って、
そこから知って、
また次を選んでいく。
原理とは、
その“営み”そのものを、
ただ支えているものです。
だからこそ、自分の選択を雑には扱えないんだと分かる
私たちは実際に、
そういう因果の中で
生きています。
どうなるか分からない人生の中で、
それでも選択しなくてはならず、
その選択によって、何かが起きる。
そして、
その結果を受け取りながら、
また次を生きていくしかない。
だとしたら、
自分が今、
何を選ぶのかということを、
雑には扱えないよね、
ということなのだと思います。
これが、本当に自由であるということの意味
そして、
何を選ぶのかは、
すべて、
自分に委ねられています。
未来を、
誰かが、
世界が、
神様が、
保証してくれるわけでは、ありません。
誰かに、
「これが正解だから、
この通りに生きなさい」
と、
決められているわけでもありません。
何を選ぶのか。
どう生きるのか。
そこには、
自分の意思があり、
自分で決める自由があります。
誰かに決められているのではなく、
自分で選ぶことができる。
だからこそ、
本当の意味で、
自由なのです。
そして、
自分で選んだことから、
何かが起きる。
そこから生じたものを、
自分で引き受けながら
生きていく。
自由であるからこそ、
そこには責任も伴います。
でもそれが、
本当に自由であるということの意味です。
本当は、とてもシンプルなこと
少し、
話がそれますが。
これは本来、
それほど難しい話ではないはずなのです。
結局人生は、
他でもない自分が、
一つひとつ選んで、
生きていくだけ、という話です。
これまで歩んできた道も同じです。
結局は、
そのときそのときの自分が、
一つひとつ、
選択してきた先に、
今の自分がいるだけです。
けれど人は、
自分の人生は、
誰かに決められてきたと感じたり、
何かに縛られているように感じたり、
「こうしなければならない」と
思い込んだりします。
そうして、
本当はとてもシンプルなはずの、
自分で選び、
その結果を引き受ける
ということが、
いつの間にか、
自分が幸せになれないのは、
誰かのせいだ。
と、
とても複雑で、
難しいものになっている。
私には、
そのように見えるのです。
では、何を拠り所にすればいいのか
では、話を戻します。
うまくいくかも分からない。
そして、
自分の選択には、
責任も伴う。
そんな人生の中で、
私たちは、
何を拠り所に生きればいいのでしょうか。
それが、
自分で考え、
選び、
やってみる。
そして現実から、
何かの結果が返ってくる。
自分がやったことで、
何かが実ったなら、嬉しい。
思うようにいかなければ、
そこから、
また何かを知る。
そして、
それまでとは違う自分で、
また次を生きていく。
その営みの中にある、
「自分が、
自分の人生を生きている」
という実感です。
何かを手に入れれば、
幸せになれる。
そうやって、
人生の外側に、
自分を支える何かを
探し続けなくても、
今、
この身体に血が流れ、
自分の命が、ここにある。
泣いたり、
笑ったり、
何かを選び、
何かを知りながら、
自分が今、
この人生を生きている。
そのこと自体に、
生きていることの喜びがある。
ただ、今日という日を生きていく
だとしたら、
最後に残るのは、
何か特別な答えでも、
完全なる
「人生の答え」でもないのだと思います。
ただ、
今日という日を、
泣いて、
笑って、
生きていくだけ。
命を営んでいくだけ。
それは、
「何も分からないから、
仕方なく投げやりに生きる」
という意味ではありません。
自分で選び、
自分で引き受け、
何かを知り、
また次を生きる。
その繰り返しの中で、
自分の命を、
自分で生きている。
そして、
そのこと自体が、
喜びだったと気付いていく。
それは、
やなせたかしさん作詞の有名な曲、
『手のひらを太陽に』
に描かれているような、
「生きている」ということ
そのものを、
喜ぶ感覚です。
「大いなる流れに乗る」ということを、
ここまで考えていくと、
最後は、
そんなところへ
戻ってくるのだと思います。
この記事は、
「大いなる流れ」全5回シリーズの第5回です。
シリーズ全体はこちら▼



