ZERO PERSPECTIVE ゼロの視点

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5つの執着は、どう関係しているのか|執着の全体像

執着を全体像から見る

このサイトでは、さまざまな執着や、そこから生じる問題について個別に解説しています。

ただ、一つひとつの記事だけを読んでいると、「これらはどうつながっているのか」「自分は今、何に向き合っているのか」など、全体の構造が分かりにくいかもしれません。

そこで、執着の構造を一度全体から見渡すために、ここに執着の全体像をまとめておきます。

これは、覚えていただくための記事ではありません。ここまで細かな構造そのものを必要とする方も、そう多くはないと思います。

私がどのようなものを見ているのか、その参考程度に読んでいただけたらと思います。

「この順番で進めばいい」というものではない

ただしこれは、

「この順番で進めば、幸せになれる」

というロードマップではありません。

執着を解くプロセスや、必要な対話は、一人ひとり違います。

全員が同じ問題を持ち、同じ順番で向き合い、同じ理解をし、ひとつの同じ「正解のゴール」へ、たどり着くものではありません。

ゼロの視点で見ている、執着の全体像

執着には「深さ」があります。

私が現在、整理している構造は、

浅い 深い
外から入る歪み(最も表層) 人との間に生じる執着 人間関係の恐れ 自己価値への執着 何者かの執着(最も深い層)

という図になります。

一番深いところにあるものが、より表層にある、さまざまな問題へと派生し、さらに発展して、私たちが日常で認識できる、具体的な苦しみや問題として現れていきます。

執着の解放は「ステージクリア型」ではない

ただし、この構造を見るうえで、大切なことがあります。

それは、この構造は、

「一つ終わったら、次へ進む」のような、「ステージクリア型」の構造ではない

ということです。

例えば、外から入る歪みを解いた。だから次は、人間関係の恐れ。それが終わったら、自己価値への執着。最後に、何者かの執着。

というように、一つずつゲームのようにクリアしながら、一直線に進んでいくものではありません。

5つの執着は、それぞれ独立しているわけではない

構造としては、

まず、表層に現れている執着の中には、より深いところにある執着が含まれています。

外から入る歪み ⊂ 人との間に生じる執着 ⊂ 人間関係の恐れ ⊂ 自己価値への執着 ⊂ 何者かの執着

※「⊂」は、左側のものが、右側のものに含まれていることを表します。

5つの執着の関係性

つまり、外から入る歪みがある場合、必ず、より深い執着も含まれているという関係です。

一方で、何者かの執着があるからといって、必ず、外から入る歪みまである、という意味ではありません。

このように、現実で起きる一つの問題の中に、外から入った価値観も、人間関係で生じた執着も、人間関係の恐れも、「私には価値があるのか」という問いも、「私は何者なのか」という問いも、全てが、重なって存在しています。

そして、もう一つ大切なのは、

一度静かになった執着が、その後、二度と現れないわけではない

ということです。

深い執着から、もう一度、執着が枝葉を伸ばすことがある

例えば、ある時点では、外から入る歪みも、人間関係の恐れも、人との間に生じる執着も、ほとんどなくなっている。

その人の中に残っているのは、「私は何者なのか」という何者かの執着や、「私には価値があるのか」という自己価値への執着だけ、という状態だったとします。

その状態で、日々を営みながら、会社や仕事、自分にとって大切なものを、築いていく。

そこから、自分の居場所を、その仕事に求めるようになったり、それを失うまいと、人間関係を、歪んで見るようになったりする。

というように、

もともと深いところに残っていた執着から、もう一度、枝葉を伸ばし、それまでなかった執着を、新たに握ることがあります。

つまり一度、表層の執着が静かになったからといって、その人が今後もずっと、深い執着だけを、扱えばいい状態になるわけではありません。

深い執着から枝葉が伸びる構造

一度得た理解から、新しい歪みが生まれることもある

別の形もあります。

例えば、自他の境界を、引けるようになり、「私は私、他人は他人」と、精神的に自立して生きられるようになったとします。

これは、一つの大きな変化です。

しかし、そこで立ち止まり、

「この生き方でいい」

という理解を固定すると、次第に、

「他人の意見は必要ない」「自分の判断だけでいい」

と、客観的な意見を、取り入れられなくなることがあります。

例えば、病気になったとき、SNSで、「薬や一般的な治療に頼るべきではない」「自然療法だけで治すべき」という考え方に出会ったとします。

その考えを、「これが正しい」と握るようになれば、目の前で、実際に何が起きているのかを見ることや、医師や家族などの、客観的な意見を聞くことが、少しずつ、できなくなっていきます。

これは、自分で考えているように見えて、実際には、

外から入ってきた一つの考え方を、正解として握り、その歪みを通して、現実を見るようになっている状態です。

つまり、一度、表層の執着が静かになっても、その後に得た理解を固定することで、それまでなかった執着や歪みが、新たに形成されることがあります。

だからこそ、

「私はもう理解したから、大丈夫」

と過信していると、その理解をもとに、

新たな執着を握ることは、普通にあるのです。

深いところから解けばいいわけではない

ここで、

「すべてが一番深い執着につながっているなら、最初から一番深いところを解けばいいのではないか」

と思うかもしれません。

しかし、

深いところから派生しているからといって、深いところから解ける構造ではありません。

構造として見ると、深いところにある執着が、より浅いところに、さまざまな問題として現れています。

しかし、実際に執着を解いていくときは、その逆です。

今、自分の「現実」の中に、何が現れているのか。何に苦しみ、何を恐れ、何を握っているのか。

必ず、「現実に何が起きているのか」から向き合う必要があるのです。

すると必然的に、一番表層に現れている問題(=表層の執着)に、向き合うことになります。

そして、表面に現れているものを、一つずつほどいていく中で、その奥にあったものが、ようやく自分でも、はっきりと意識できるようになる。

そのような構造です。

表層から深い執着へ向き合う構造

執着を解くルートは、「あるけれど、ない」

ここまで、

執着には深さがあり、構造としては、深いところから表層へ現れる。

一方、実際に解いていくときは、表層から深いところへ向かう。

という話をしてきました。

そういう意味では、執着を解いていくための、一つの「ルート」はあります。

しかし、ここには、大きな矛盾があります。

この記事を読んで、「なるほど。執着はこういう構造なのか」と理解する。

ここまでは、問題ありません。

問題は、「では、この順番で解いていけばいいんだ」と、その理解を、「これが正解だ」と固定した瞬間です。

「正解」を握った瞬間、新しい執着が生まれる構造

「私は今、この段階にいる」「この順番で進めばいい」「次は、この執着を解けばいい」

そうやって、自分なりに理解したことを、正解として握ってしまえば、今度は、「正しいルートを進めばいいんでしょ」という、新しい執着が生まれます。

すると、執着を解こうとしているのに、皮肉なことに、新しい執着を握る。

既存の執着を解こうとしながら、並行して、新しい執着を生み出していく。

という、矛盾した状態に入ります。

「わかった」が、次の執着になる

さらに難しいのは、

本人には、それが新しい執着が生まれているようには、見えにくい

ことです。

むしろ、

「構造がわかった」「自分が何に取り組めばいいのか、理解できた」「だから私は、ちゃんと自分と向き合っている」

そして、自分は正しく理解できている。よし、これで大丈夫だ。

という感覚になります。

つまり、執着を解くために、新しい理解を得る。

その理解が自信となり、正解への万能感へと変わる。

そして、視野が狭くなっていく。

このように、

執着を解くために得た理解そのものが、次に新たに握る執着になることがあります。

私はこれを、

マトリョーシカのような構造

として見ています。

マトリョーシカ構造

一つ開けたら、その中にまた同じ構造がある。

そして、その中にも、また同じ構造がある。

この状態に入ると、本人は、

「自分はもう、分かっている」

と思うからこそ、その構造に、気づきにくくなります。

マトリョーシカ構造

執着の解放とは、勉強や学問のように、知識を増やし、理解を積み重ねれば、そのぶん前に進んでいる、というものではありません。

肩書きも、これまで収めてきた成功も、一切関係がありません。

むしろ、「私は分かった」「もう理解している」と、自分の理解を固定した瞬間、その理解によって、今、現実に起きていることが、見えなくなることがあります。

「自分が理解したことの方が、今ここで起きていることよりも正しい」

そうなったとき、それまで見えていたものまで、見えなくなっていきます。

このマトリョーシカ構造に入る根には、

傲慢さがあります。

だから、

昨日まで正しかった理解でさえ、今日の現実を見る邪魔になったら手放す。

そのことが、大切なのです。

それでも、この全体像を置く理由

私は、このサイトを作る前に、この矛盾について、何度も考えました。

執着の構造を伝えれば、その構造を正解として、新たな執着を握る人が出てくるかもしれない。

では、何も伝えなければいいのだろうか。

けれど、何も知らなければ、そもそも、自分の中で、何が起きているのか。なぜ、同じような問題を繰り返しているのか。

それを見るための、手がかりさえ持てないことがあります。

だから私は、こうして全体像を示すことにも、意味があると考えています。

ただし、伝えることで生まれるものと、伝えなければ見えないもの。

この矛盾を、完全になくすことはできません。

人は、何かを理解し、それを新しい答えとして握ることもある。

そしてまた、目の前の現実にぶつかることで、それまで見えていなかったことに気づく。

そうやって、現実にぶつかり、時には間違え、それまでの理解を、壊しながら進んでいく。

私自身も、その繰り返しの中にいます。

だから私は、

そうした不完全さも含めて、このサイトを運営しています。

正解がないように感じたら

ここまで読んで、

「では、結局どう進めばいいのだろう」

と感じた方も、いるかもしれません。

特に、勉強や学問、仕事や資格など、何かを理解し、一つずつ課題をこなし、レベルアップして次の段階へ進む、という方法に慣れている人ほど、この構造は、「正解がなさすぎる」ように見えると思います。

その通りです。

原理とは、そもそも正解がないものです。

ちなみに私自身、この世界の原理や、人の無意識というものに対して、到底、すべて理解できるものではないそう感じています。

だから、このサイトに書いていることは、私自身の頭の中にあるものですが、それを答えのように認識している、というわけではありません。

まず、理解する。次に、試してみる。そして、実際に起きていることを見ながら、必要であれば理解を修正する。

その繰り返しの中で、今、見えているものを置き続けている。

それだけです。

そう聞くと、さらに、「何を目指して、どこへ向かえばいいのか分からない」と感じる人も、いるかもしれません。

その場合は、

一旦、ここまでの話を全部忘れてください。

必要なのは、今、自分の目の前の現実に、心がどう反応したか。そこに、ただ向き合う。

たとえば、今日、誰かの言葉に強く反応した。何かを失うことが怖くなった。自分の正しさを証明したくなった。

そのときに、「これは何の執着だろう」と分類する必要はありません。

なぜ今、私はこれを握っているのだろう。

まずは、心の動きを見る。

それで十分なのです。

セッションでは、「これまでに理解したこと」も含めて見る

私とのセッションでも、

見るのはただ、今、その人の現実に、何が起きているのか。どういう心の動きが、起きているのか。何を握っているのか。

それだけです。

同じひとつの構造に沿って、

「あなたは今ここです」「次はこれを解きましょう」

と、進んで行くものではありません。

そして、「何を握っているのか。」

それは、過去から握ってきた執着だけとは、限りません。

「私はこんなに理解してきた」「私はこんなに頑張ってきた」「次はこれを解けばいいんだ」という、自分と向き合う中で得た、新たな理解そのものを握っていることもあります。

その場合には、その理解も含めて、もう一度、ゼロから見ていきます。

必要であれば、それまで正しいと思っていた理解そのものを、一旦すべて壊し、更地になることもあります。

ゼロの視点では、何を理解したのかだけではなく、その理解を、今、その時点で、どう握っているのか。

そこまで含めて、見ています。

それぞれの執着について

この記事では、それぞれの執着がどのような関係にあるのか、その全体の構造について説明しました。

それぞれの執着については、「執着から自由になる|道なき道」の中にまとめています。

執着の全体像を見る

5つの執着の分類と、それぞれの基本記事はこちらからご覧ください。

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