はじめに
この記事は「二元論シリーズ」の第1回です。
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セッションでもよくテーマになるのが、
「二元論」です。
二元論とは、
物事を二つに分けて理解しようとする見方です。
例えば、
善と悪
正しいと間違っている
勝ち組と負け組
上と下
成功と失敗
このように、
世界を二つに分けて理解しようとする見方です。
二元論は善悪だけではない
二元論というと、
“善悪で人を裁くこと”
のように思われることがありますが、実際にはもっと広いものです。
例えば、
あの人は優秀だ
あの人は無能だ
私は被害者だ
あの人は加害者だ
私は理解している
あの人は理解していない
これも二元論です。
何か一つの基準を作り、その基準によって世界を分類している
という構造です。
なぜ人は白黒をつけたくなるのか
現実は本来、
そこにあるのは“ただの事実だけ”です。
ですが人間関係には、
それぞれの感情があり、
背景があり、
事情があります。
そして出来事に対して、
納得できることもあれば、
納得できないこともあります。
だから人は、
「結局、どちらが正しいのか」
「誰が悪いのか」
「どちらが上なのか」
といった“解釈”を求めます。
なぜならそうすることで、
理解し難い現実がすっきりと整理されたように感じられ、
心の安定を保てるからです。
二元論で見える世界
例えば人間関係で、
トラブルが起きたとします。
二元論で見ると、
私が正しい vs 相手が間違っている
という構図になります。
すると、
相手が変わるべきだ
謝るべきだ
という考えが生まれます。
ですが実際には、
双方に事情があり、
感情があり、
考えがあり、
お互いに見えていないものがあります。
だから、
本当はシンプルな“事実”に、
あらゆる解釈が入ってきて、
人間関係の糸はさらに拗れていきます。
二元論は現実を単純化する
二元論の問題はよく、
「物事に善悪はない」
「どちらが正しい、間違っているという物の見方は間違っている」
「だから二元論を手放しましょう」
という話として語られます。
ですが私は、
もっと手前に、
問題の本質があると思っています。
それは、
二元論によって
現実が“単純な構図”へ置き換えられ、
思考が止まってしまうこと
です。
本来、
一つの出来事には様々な要素があります。
それぞれの事情があり、背景があり、
それぞれの感情があります。
ですが二元論では、
「正しい側」 vs 「間違っている側」
という単純な構図を先に置きます。
そして人は、
不安から、
「自分は正しい側にいる」
と確認することで安心しようとします。
本来であれば、
なぜその出来事が起きたのか。
相手にはどのような事情があったのか。
自分は何を見落としているのか。
そうしたことを考える余地があります。
ですが一度、
「私は正しい」
「相手が間違っている」
という敵味方の構図が出来上がると、
人はそこで考えることをやめてしまいます。
なぜなら、
既に本人の中では、
答えが出ているからです。
「正しいのは私だ」と。
その構図の中で、
今度は、
自分が正しい理由。
相手が間違っている理由。
その答えを裏付ける証拠を集め始めます。
あとは、
自分がいかに正しいかを証明するだけ
になります。
あとは、自分を証明する作業になる
人間関係は、
本来そこに、
お互いの事情や背景、
すれ違いや誤解など、
様々な要素があります。
ですが、
「私は正しい」vs「相手が悪い」
という構図が先にできてしまうと、
相手が悪かった場面ばかりを思い出し、
自分が正しかった理由ばかりを集め始めます。
するとコミュニケーションは、
“自分が悪くないと証明する作業”のようになっていきます。
私は、
このような
「先に単純な構図を置き、思考を止めてしまうこと」
こそが、
二元論の本質的な問題
だと思っています。
二元論は悪なのか
ここで勘違いしてはいけないのが、
二元論そのものに問題がある、という話ではありません。
私たちは誰でも、
二元の対なる概念の中で生きています。
例えば、
信号は、
赤=止まれ
青=進め
というルールです。
これは現実を“解釈”するためではありません。
行動に秩序をもたらすためです。
だから単純化しても問題ありません。
むしろ単純化しないと危険です。
でも人間関係は違います。
そこには、
相手の事情
自分の事情
過去の積み重ね
価値観
感情
タイミング
といった様々な要素があります。
ところが、
私が正しい vs 相手が悪い
という二元を置くと、
それは、
信号のような「二元の秩序に沿った行動判断」ではなく、
先に結論を置いて現実をそこに合わせて解釈し証明する作業
になります。
だから、関係が壊れていくのです。
次回は、
「二元論とコントロール欲求」
その構造についてお話します。




