こちらは本編ではなく、当時を振り返って思うことについての補足です。
私の「赦し」の原点
私は、
二十年近く、
「父を許せない。」
という気持ちで苦しんでいました。
父は、
私が“失われた高校時代”を送ることになった、
家庭環境を作った人でした。
父の自分勝手な行動によって家庭は崩れ、
私は高校を中退しました。
その後も、
生活を立て直すために、
必死に生きていました。
だから、
「許せない」という気持ちが
消えることはありませんでした。
ですが、
私が父を許せなかった理由は、
それだけではありません。
私の尊厳を傷つけられたと感じる出来事が、
父との間には何度もありました。
忘れられなかった一本のメール
その中でも、
今でも忘れられない、出来事があります。
父は不倫をし、
母と離婚し、
その後、
不倫相手と再婚しました。
そしてある日、
私に一本のメールを送ってきました。
「兄弟が生まれました。名前は○○です。」
生まれたばかりの赤ちゃんの写真が、
添えられていました。
尊厳を踏みにじられた
当時の私は、
会社勤めで、
家計を支えながら必死に働き、
ようやく人生を立て直そうとしている時期でした。
だから、
「誰のせいで、
こんな状況になったと思っているのだろう。」
「私に、おめでとう、とでも言ってほしかったのだろうか。」
そう感じて、
私は、
自分の尊厳を踏みにじられたような気持ちになりました。
腹の底から怒りが込み上げ、
涙が出ました。
そして、
そのメールを削除し、
もう一生、
父とは連絡を取らない。
そう決めました。
離れても、苦しみは終わらなかった
ですが、
父と連絡を絶っても、
私の苦しみは終わりませんでした。
もう関わらなければ、
これ以上傷つけられることはないかもしれません。
けれど、
私の中には、
「父を許せない。」
という気持ちが残り続けていました。
目の前にいなくても、
私の中では、
父との出来事は終わっていなかったのです。
私はずっと考えていました。
このまま一生、
恨み続けた先に、
私は何を得るのだろう。
この苦しみは、
いつ終わるのだろう。
父に対する見方が変わった
覚醒後、
物事を見るときの感覚が大きく変わる中で、
父という人間に対する見方も、
それまでとは大きく変わっていきました。
それまでの私にとって父は、
私の家庭を壊した人。
家族を傷つけた人。
尊厳を奪った人。
でした。
身体的な暴力もありました。
それらは、
実際にあったことです。
「父」ではなく、一人の人間として見えた
ですが、
私は初めて、
「私を傷つけた加害者である父」
という関係の中だけではなく、
ひとつの人生を生きてきた、
一人の人間として、
捉えるようになっていました。
父には、
父の人生があった。
苦しみがあり、
弱さがあり、
その中で生きてきた一人の人間だった。
そのことが、
初めて見えてきたのです。
正当化することではない
ここで、
誤解していただきたくないことがあります。
私は、
父の行動を正しいと思ったわけではありません。
家庭を壊したこと。
深く傷つけたこと。
それを、
肯定したわけでもありません。
傷ついたという事実が、
なくなったわけでもありません。
父が自らの行動によって生み出したものや、
背負うべき責任まで、
なくなったわけではありません。
相手のしたことを、
「仕方がなかった。」と肯定するという意味ではありません。
許せない相手を、
一人の人間として理解することと、正当化することは違います。
苦しみや弱さによって、誰かを傷つける
私が理解した「赦し」とは、
相手を、
「私を傷つけた人」
「ひどい人間」
「加害者」
としてだけ見るのではなく、
一人の人間として、
理解することでした。
人は、
自分自身の苦しみや弱さを、
受け止め切れないことがあります。
そして、
その苦しみや弱さによって、
無自覚に、
誰かを傷つけることがあります。
しかし、
人は誰しも完璧ではありません。
そして何より、
誰かの弱さによって傷つけられた人、
—つまり自分もまた、
相手を断罪し、
裁き続けることで、
今度は自ら、
誰かの新たな傷を生み出してしまうことがあります。
つまり、
傷つけられた側だった自分も、
その苦しみを握り続ける中で、
無自覚に誰かを傷つける側になることがある。
苦しみが、
次の苦しみを生み出していく。
血を流した側が、
今度は、相手に血を流させるように。
その構造の中にいる限り、
誰かが自ら手放さなければ、
苦しみは永遠に終わることがありません。
私は、
その構造を理解したのだと思います。
そう理解した時、
父を裁き続け、
過去の出来事を握り続けていた執着を、
もう、
握り続けるのをやめよう。
そう思いました。
すると、
握り締めていた手から力が抜けるように、
執着が、
自然に手放されていくのが分かりました。
父も苦しんでいるように感じていた
私は、
父に連絡を取りました。
連絡を取らず、
自分の中だけで完結することも、
できたのかもしれません。
ですが私は、
父もまた、
苦しんでいるのではないか。
そう感じていました。
自分がしてしまったこと。
壊してしまったもの。
そのことに対する罪悪感を、
父もまた、
抱えているように感じていました。
本当にそうだったかは、
私には分かりません。
しかし私は、
自分だけが、
この苦しみから離れるのではなく、
もう、
お互いに苦しみ続けることを、
終わりにしないか。
そのような思いがあり、
父に連絡を取りました。
初めて聞いた父の本音
その後、
父と再会した時、
それまで聞いたことのなかった、
父の話を聞きました。
自分がひどいことをしたことは、
分かっている。
あの頃は、
何も分かっていなかった。
けれど当時の自分にとっては、
仕事がすべてで、
あの時は、
ああするしかないと思っていた。
父は、
そのような話をしていました。
もちろん、
それを聞いたからといって、
父のしたことが、
正しかったことになるわけではありません。
父も、
許してほしいと言ったわけではありませんでした。
ですが、
「私を傷つけた父」
あるいは、
長年、
怖いと感じてきた父親としてではなく、
一人の人間として、
改めて父と話をした時、
初めて、
父を、
「弱さを抱えた一人の人間」として、
見ることができたように思います。
そしてそれは、
私が心の中で、
父を裁き続けている間には、
決して見ることのできなかった、
父の姿だったのだと思います。
苦しみの連鎖を終わらせる意味
私はこの経験を通して、
苦しみを終わらせることには、
大きな意味があるのだと感じました。
過去をなかったことにしなくてもいい。
正しかったことにしなくてもいい。
それでも、
互いに苦しみ続ける連鎖を、
終わらせることはできる。
父との関係を通して、
私はそのことを知りました。
私が理解した「赦し」とは
私の中で、
二十年近く続いていた苦しみは終わりました。
もう、
その過去に、
人生を左右されることがなくなったのです。
私が理解した「赦し」とは、
苦しみを生み出してしまう、
人間の弱さを理解することです。
そして、
その弱さは、
自分の中にもあるのだと知ることでした。
人は、
誰しも完璧ではありません。
弱さもあれば、
愚かさもある。
間違えることもあれば、
自分でも気づかないうちに、
誰かを傷つけてしまうこともある。
それは、
父だけではありません。
私もまた、
同じ一人の人間です。
そう思った時、
果たして、
自分だけが誰かを裁けるほど、
立派な人間なのだろうか。
そう自分に問いかけました。
私は、
そうは思えませんでした。
父も一人の不完全な人間だった。
そして、自分も同じく不完全な人間だった。
人間は誰しも、自分の弱さや愚かさによって間違える。
その意味では、自分だけが相手を裁けるほど、立派な存在でもない。
だから、相手を裁くことをやめ、理解とともに在る。
それが、
私が父との経験を通して理解した、
「赦し」でした。
父との経験は、
私がそのことを初めて体感した経験です。
そして、
この経験は、
「ゼロの視点」の、
原点の一つになっています。



