【覚醒後|後編③】「何者か」への執着が崩れたとき

①活動の経緯

活動の経緯シリーズのご紹介

この記事は、
私のこれまでの歩みをまとめた、
シリーズの一つです。

前回の記事はこちら▼

シリーズ全体はこちら▼

長年の問いとの対峙が始まった

私は、
発信と活動を、
すべて停止しました。

活動を止めたことで、

私は、
自分自身が以前から抱えていた問いと、
真正面から向き合わざるを得なくなりました。

自分の中に残っていた違和感

それと並行して、

私の中には、
一つの違和感が残っていました。

誹謗中傷の体験後、

「酷いことをされた。」

そう感じたからこそ、

相手は、
人を傷つける側。

私は、
そのようなことをしない側。

そう線を引き、

繰り返し心の中に出てくる、
嫌悪感や怒りを、

自分とは無関係なものとして、
終わらせようとしていました。

けれど、

私は、

そのように線引きをしても、
この苦しみは終わらないことを、
分かっていました。

嫌悪感や怒りが、
これほどまでに消えないのであれば、

この違和感は、

私自身の中にある、
何らかの執着と関係している。

そこまでは、
分かっていました。

けれど、

自分の執着は、
自分からは見えません。

何を理解すれば、
この苦しみから、
手を離せるのか。

執着があることは分かっている。

けれど、
その正体が分からない。

私は長い間、

どうすれば、
この執着が外れるのか。

分からないまま、
問い続けていました。

相手と自分は、本当に違うと言えるのか

一方で、

私の中には、
もう一つの問いが生まれていました。

相手と自分の、
心の在り方は、

本当に違うと言えるのか。

私が、

「こんな扱いは酷い」
と感じた相手の行動
と、

「自分はそのようなことをしない側だ。」
と線を引いていること
は、

本質的に、
まったく別のものだと、
言えるのだろうか。

むしろ、

何か共通するものが、
あるのではないか。

私は、
何度も、
自分に問い続けていました。

無自覚なまま他者を傷つける構造

その頃、
私は、

誹謗中傷の中心人物の
周囲にいる人たちの様子も、

目にしていました。

そこには、
今回の誹謗中傷に関わっていながら、

自分が他者を傷つけているという認識を、
持っているようには見えない光景がありました。

その光景を目の当たりにしたとき、
私は、

人は、
自分が何をしているのかに気づかないまま、
誰かを傷つけてしまうことがある。

ということを、
改めて思い出していました。

このこと自体は、
以前から理解しており、

セッションでも、
何度も伝えてきたことです。

けれど、
実際にその関係性の中で向き合ったとき、

その理解に、
それまでとは違う重みが感じられたのです。

その重みを伴った理解が、
パズルのピースとなり、

それまで私の中で、
別々に存在していたものが、
一つにつながり始めました。

「嫌悪していた構造」が自分の中にもあった

その瞬間、

あることが、
頭をよぎりました。

私は、

「自分はそのようなことをしない側。」

と線を引いて、

心の中で、
相手を退けようとしている。

けれど、

「待てよ。」

これこそが、

人が無自覚なまま、
心の中で立ち上げてしまう、

「他者を排除する構造」

なのではないか。

そのとき、
これまで言葉にならなかったものが、
少しずつ見え始めたのです。

表面に現れている行動は、
違っていても、

私がされて嫌悪していた、
「他人を排除しようとする構造」と同じものが、


私の中にも、
そのまま立ち上がっているのではないか—

そう思った瞬間、

自分が長年抱えていた執着の全体像が、

まるで走馬灯のように、
映画のコマ送りのように、

頭の中を、
一気に駆け巡りました。

長年の問いは、何を支えようとしていたのか

そのとき、
真っ先に見えたのは、

私が「長年抱え続けてきた問い」が、
私の中の何を支えようとしていたのか、

ということでした。

これまで私は、
たくさんの大切なものを手放して、
自分の人生そのものを、
差し出すように歩いてきた。

だから、
これまで歩んできた道には、
ちゃんと意味があるよね。

私が歩んできた道は、
間違っていないよね。

私は、
この問いを長年抱えていました。

そしてそれを、

誰かにぶつけたり、
肯定を求めたりせず、

ただ一人静かに、
問い続けているだけでした。

けれど、
その問いだけは、
どうしても手放せず、

何度も、
同じ場所を回っていた。

それこそが、

自分が歩んできた道の正しさによって、
「自分は何者か」を支えようとする構造


そのものだったのではないか。

その時、

「私はそういうことをしない側」と境界線を引くことへの違和感

と、

私が長年、ひとりで抱え続けてきた問い

が、

まったく別のものではなく、

同じ根源

から生まれていたことに、
気づいたのです。

相手の中に見ていたものとつながった

その根源とは、

「何者かであろうとする構造」

でした。

私は、驚きました。

なぜ、
そのことが、

私にとって、
それほど大きな驚きだったのか。

それは、
私が当初、

“その構造は誹謗中傷をした相手の言動の奥”

にあるものであって、

まさか、
自分にも同じ構造があるなんて、
考えてもいなかったからです。

当時の私には

「相手が、
自分の中の何かを保つために、
私の存在を退けようとしている」

そのように感じられていました。

もちろん、
本当にそうだったのかは、
分かりません。

でも私は、
誹謗中傷という行為「そのもの」に、
傷ついたというより、

むしろ、

「私自身が、
一人の人間としてではなく、
何らかの理由によって“ただ退ける対象として、
扱われているように感じたこと」


そこに対し、

人としての尊厳を、
傷つけられたような痛みを感じ、

最も強い怒りと、
嫌悪感を持ったのです。

それほどまでに、
嫌悪していた構造が、

決して、
自分と無関係なものではなかった。

相手の中に見ていた残酷さが、
自分の中にもあったことに、

冷や水を浴びたような、
目が覚めるほどの驚きを感じたのです。

相手を、心の外へ置けなくなった

つまり、

このとき私は、

相手の中にだけあると思い、
強く嫌悪していた、

「自分の何かを守ろうとする構造」を、

形を変えて、
自分自身の中にも見つけた

のです。

もちろん、

相手と私の行動は、
同じではありません。

私が長年問い続けてきたことと、

他人の人格を、
一方的に貶める言葉を、
公の場で発信すること。

その行動も、
社会的な責任も、
まったく同じではありません。

けれど、

私が同じだと感じたのは、

行動ではなく、

その奥で、
自分を支えようとしていた構造と、

それを生み出す、
人間の弱さでした。

相手の本当の動機は、
私には分かりません。

けれど、
もし相手の中にも、

「弱さから、
自分の何かを守ろうとする構造が生まれ、
それが誹謗中傷という行動として、
現れていたのだとしたら。」

そして、
形は違っていても、

「その構造が、
私自身の中にもあったのだとしたら。」

相手もまた、
弱さを抱えていたのかもしれない。

人は、
その弱さから、
他人を誰かを傷つけてしまうことがある。

でも、

弱いのは、
私も同じだった。

そう思ったとき、

相手だけを、
私とは違う人間として、

心の外へ置くことが、
できなくなりました。

父を理解したときと、よく似ていた

その感覚は、

かつて私が、
父への怒りを手放し、

自然と赦しを理解したときと、
よく似ていました。

父を、
自分を傷つけ、
家庭を壊した人として見ていた私が、

弱さや苦しみを抱えた、
一人の不完全な人間だったのだと理解したとき、

怒りは、
自然と手放されていきました。

そのときのことは、
こちらの記事に書いています▼

今回もまた、

私を誹謗中傷した人たちが、

「人を傷つける人」

「間違った人」

という認識から、

弱さや苦しみを抱えながら生きる、
一人の人間として見え始めました。

事実として確かめようのない内容を、
強い言葉とともに、
公に発信されたこと。

それによって湧いた怒りも、
嫌悪感も、
嘘ではありません。

その行動を、
肯定したわけでもありません。

けれど、

弱さを抱えた人間が、

同じように、
弱さを抱えた人間を、

「間違った人間」として、
裁けるものなのだろうか。

そう思ったのです。

人間そのものにある構造

そこで、

私の問いは、

さらに広がっていきました。

「自分が何者であるのかを、
確かめようとすること」

「何らかの答えや確信によって、
自分自身を支えようとすること」

それは、

私だけに起きていたことではなく、

人間そのものの中に、
広く存在している構造なのではないか。

そう思うようになりました。

人は苦しみから、

「自分は間違っていない」
という確かさを求めます。

そして、
その確かさを守ろうとすると、

反対側には、

「間違っている誰か」

が生まれることがあります。

その誰かを否定し、

排除し、

傷つけ、

争うことさえあります。

もちろん、
それは、
誰か特定の人だけの話ではありません。

程度や形は違っても、
人間の心には、
そのような構造が立ち上がることがある。

そう考えるようになりました。

「何者か」への執着が崩れたとき

それまで、
次々に浮かび上がっていたものが、

一つの全体像として、
つながりました。

その瞬間、
全身の力が抜け、

私は、
ふと、
こう思いました。

「私は、

一体何を、

そんなに必死になって、

確かめようとしていたのだろう。」

これまで歩いてきた人生は、
何一つ変わっていません。

手放してきたものも、
歩んできた時間も、
そのままです。

それでも、
あれほど大きく見えていた問いが、

とても、
小さく見えました。

「私が歩んできた道は、
間違っていなかったよね?」

それが、
なんて、
小さな問いだったのだろう。

それまでとは、
見えている世界そのものが、
変わっていました。

「何が正しかったのか。」
「何が間違っていたのか。」

その答えによって、
自分を支えようとしていたものが、
静かに、
ほどけていました。

これが、

私が長い間、

その正体も分からないまま握り続けていた、

「何者か」への執着が、

崩れた瞬間でした。

私の問いは、人間そのものへ向かっていった

そして、

私の問いは、
別の方向へ向かっていきました。

それは、

もう、
自分の人生が間違っていたのかを、
確かめようとする問いではありません。

人間は、

なぜ、

これほどまでに、

自分が何者であるのかを必要とするのだろう。

なぜ、

人は、

何らかの正しさによって、
自分を支えようとするのだろう。

なぜ、

その正しさを守るために、

誰かを否定し、

争うことがあるのだろう。

もし、
この構造が、

一人ひとりの心の中にあるのだとしたら。

人類が長い間繰り返してきた争いも、
本当は、

同じ根から生まれているのではないだろうか。

そんな問いが、
私の中に生まれました。

そして、
その問いを追い続けた先に、

現在の

「ゼロの視点」

があります。

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