はじめに
この記事は、
「精神世界とナラティブ」シリーズの第6回です。
シリーズ一覧はこちら▼

ここまで、
神や魂、
見えない世界について、
人間がどのような
ナラティブ(物語)をつくり、
その世界観の中で
どのような執着を
持つことがあるのか。
いくつかの角度から
見てきました。
外側の権威として、
神の意思に従うこと。
魂を成長させること。
本当は、
自分自身が神だったと考えること。
さまざまな世界観がありました。
このシリーズを通して
私が見てきたのは、
結局、
その世界観を通して、
自分自身や他人を
どのように認識しているのか。
ということです。
神様は、
自分をどう見ているのか。
自分の魂は、
どこまで成長しているのか。
自分は、
どこまで目覚めているのか。
そして、
そうしたことを
考え続けるうちに、
本当は、
自分が何を感じているのか。
目の前にいる人が
どう感じているのか。
自分は、
どのように生きたいのか。
もっと身近で、
最も大切なものが、
見えなくなってしまうことがあります。
シリーズ最終回では、
そこについて
書いていきたいと思います。
本当に見るべきものは
ここまで、
神。
魂の成長。
目覚め。
本当の自分。
それらについて
考えること自体を、
私は問題にしているわけではありません。
自分なりの世界観を
持つことは、悪い事ではありません。
それによって、
苦しいときに
支えられることもあるでしょう。
ただ、
その世界観が
絶対的なものになり、
自分自身の
アイデンティティと
強く結びついたとき、
目の前で
実際に起きていることよりも、
自分が信じている物語の方が
強くなることがあります。
「これは、
魂を成長させるために起きた」
「あの人は、
まだ分かっていない」
「私は、
もう気づいている」
そうやって
説明することによって、
本当は、
自分が何をしたのか。
相手は、
どう感じているのか。
そして、
自分自身は、
本当はどう感じているのか。
そこが
見えなくなってしまうことがあります。
神様ではなく、自分の心に問いかける
だから、
このシリーズの最後に
私が問いかけたいのは、
もっと単純なことです。
あなたは、
本当はどう感じているのでしょうか。
誰かを傷つけたとき、
あなたは、
どう感じるのでしょうか。
自分に嘘をついた生き方をするとき、
あなたは、
どう感じるのでしょうか。
誰かが苦しんでいるとき、
あなたの胸は、
どう動くのでしょうか。
自分が幸せになるために、
他人を拭付けなければならないとしたら、
あなたは、
それを本当に幸せだと
感じるのでしょうか。
そこを見るために、
果たして、
神の正体を
知る必要があるのでしょうか。
魂がどこまで
成長しているのかを、
確認する必要が
あるのでしょうか。
自分が神なのかどうかを、
決める必要が
あるのでしょうか。
私は、
そこが一番、
この記事シリーズで伝えたかったことです。
私が「自分も他人も幸せに」と書く理由
私はこのサイトで、
自分自身が
幸せに生きること。
そして、
そのために
誰かを踏みにじらないこと。
自分の内面を見て、
自分を振り返ること。
そういったことを
何度も書いています。
でも、
それは、
そうしなければ
神に罰せられるからでも、
悪いカルマが
返ってくるからでも、
魂を成長させるためでもありません。
ましてや、
そうしないと
自分が神であることを思い出せないから、
分離が統合に向かわないから、
でもありません。
私自身が、
そうではない生き方をすると、
胸が痛むからです。
苦しんでいる人を見れば、
胸が痛むからです。
自分の言動によって
誰かを傷つけたと分かれば、
私自身が苦しいからです。
自分に嘘をついて生きれば、
自分自身が耐えられないからです。
だから、
私は、
自分も幸せでありたいし、
自分の幸せのために
誰かを踏みにじるような生き方も
したくありません。
それは、
「すばらしい光側の人間になるため」
ではありません。
「魂の成長した人間になるため」
でもありません。
まして、
「私はここまで分かった」
「私はここまで成長した」
と、
誰かと自分を比較して
悦に浸るためでもありません。
私自身が、
そう生きたいからです。
神様がどう思うかではなく、あなたはどう感じるのか
だから、
私が問いかけたいのは、
神様が、
あなたをどう見ているのか。
あなたの魂が、
どこまで成長しているのか。
あなたが、
どこまで目覚めているのか。
ではありません。
あなたは、
何に胸が痛むのでしょうか。
あなたは、
どんな自分でいると苦しいのでしょうか。
そして、
誰かを無意識に傷つけたと分かったとき、
あなたは本当はどう感じるのでしょうか。
そして、
あなたは、
本当は、
どのように生きたいのでしょうか。
原理に反したら
悪いカルマが返ってくるから。
神様に
見られているから。
魂を
成長させなければならないから。
そういう理由がなくても、
人は、
自分自身の心を見て、
どう生きるのかを
選ぶことができます。
むしろ、
そうした答えを
一度横に置いたとき、
それまで見えにくくなっていたものが、
見えてくることもあるのではないでしょうか。
世界の答えを探していたところから、自分の心へ戻る
神はいるのか。
魂は何なのか。
人生には、
どんな意味があるのか。
それについて
考えることを、
私は否定しません。
私自身、
見えない世界について
認識していることがあります。
自分なりの世界観も、
美学もあります。
でも、
世界について
どれだけ壮大な答えを持っていても、
その答えによって、
目の前にいる人が
見えなくなっているのであれば。
自分が誰かを傷つけていることを
見なくなっているのであれば。
「成長した私」
「目覚めた私」
「分かっている私」
という自己認識を
守ることばかりに
なっているのであれば。
その世界観は、
本当に、
自分や誰かを
幸せにしているのでしょうか。
世界についての答えを探したり、
その答えを守り続けるよりも、
一度、
自分自身の本当の心へ
戻ってみてもいいのではないでしょうか。
あなたは、
本当はどう感じているのか。
あなたは、
どう生きたいのか。
そして、
その生き方は、
自分と誰かを
本当に幸せにするのか。
そこに、
「神とは何か」
という答えがなくても、
自分自身で悩み、
考え、
そこに向かって歩むことはできます。
「何者かの執着」は、自分で手放していくもの
「私は何者なのか」
という問いに、
世界の側から
答えをもらおうとする。
その答えによって
自分を定義し、
自分の位置を確認する。
そして、
その自己認識を
守るために、
自分や他人を
比較し続ける。
それが、
このシリーズで見てきた、
「何者かの執着」
の一つの現れです。
この執着は、
誰かに、
「あなたは本当は
こういう存在ですよ」
「こう生きたら
正解に辿り着けますよ」
と、
新しい答えを
与えてもらうことで
なくなるものではありません。
それでは、
また新しい
「何者か」を、
自分に与えただけだからです。
だからこそ、
自分自身で、
自分が握っている
物語に気づき、
そこから、
自分の心へ戻っていく。
私は、
本当はどう感じているのか。
私は、
どう生きたいのか。
最後に残るのは、
そこなのだと
私は考えています。

