見方によって解釈は変換される|ブログと対話は“別物”

④理解を手放す

本当に理解するのは、簡単ではない

今日は、
ブログと対話はなぜ“別物”なのか
というお話をします。

例えば、私はこのサイトで

「カルマというのは原理であって、“罰”のように理解するものではない」

と、何度か書いています。

ですが、
このサイトに書いてある内容を、

“頭ではなく体感として理解すること”

は、
そう簡単な話ではないのだな、
と思った出来事があります。

例えるなら、

少女にも見えるし、
老婆にも見える有名な絵があります。

一度少女に見えると、
老婆がどこにいるのか分からない。

逆に老婆に見えると、
少女が見えなくなる。

ですが、
どちらかが間違っているわけではありません。

同じ絵を見ているのに、
見え方が違うのです。

人の理解も、
少し似ているのかもしれません。

今日ご紹介するのも、
そんな出来事です。

今日はそのエピソードを交えて、ご紹介します。

夫との会話

昨日に引き続き、夫とのエピソードです。

今朝、
夫が言いました。

夫「自分はこれまでたくさんの人に迷惑をかけてきた」

夫「もう二度としない。自分を律していく。」

夫はこれまで、
たくさんの失敗をしてきました。

そういう事に、
改めて思いを馳せていたようです。

夫は、さらに続けました。

夫「俺はたくさんカルマを作った」
「背負っていかなくてはいけない」

私「・・・?」

私は少し違和感を覚えました。

どうして今、その理解で止まっているのだろう。

夫は私のブログを読んでくれています。

そこには、

カルマは原理であり、罰ではない。

何度もそう書いています。

なのに、
なぜそのような結論になるのだろう。

そう思った私は聞きました。

私「カルマは罰のように背負うものじゃない。

そうブログに書いたの、読んでくれたよね。

でも今、そこで理解が止まっているみたいだね。

記事の内容、分からなかった?」

カルマについて説明している記事はこちら▼

夫「いや、ブログを読んで分かっているよ。

カルマは罰じゃない。

でも・・・

俺が過去にやらかしてきたのも事実だし。

だから俺は、
俺の作ったカルマを、背負っていかなくてはならない」

夫はそう言いました。

私が気になったこと

私が気になったのは、

夫が正しく理解しているか、
間違って理解しているか、

ではありません。

というより、

物事はどこから見るかによって、
見え方そのものが変わります。

例えば、

歩行者から見れば、
車が邪魔です。

車から見れば、
歩行者が邪魔です。

どちらが正しい、
どちらが間違っている、

という話ではありません。

立場が違えば、
見えている景色が違うのです。

そして、

人は自分が見ている景色を、
当たり前だと思っています。

だから、

別の景色が存在することに、
なかなか気付けません。

だから私が気になったのは、
夫が何を理解したのかや、
どの理解が正しい・間違っているではなく、

なぜその見え方になっているのか。

という部分でした。

知識を理解することと、認識構造が変わることは別

この時、
夫はカルマの記事の内容を
理解できていなかったのでしょうか。

私はそうは思いません。

むしろ夫は、
真面目に受け取ろうとしていました。

文章そのものは理解しているのです。

ですが、

「知識として理解すること」と、
「その人の認識構造そのものが変わること」は

まったく別物です。

文章自体は理解できても、
その人がどのような認識構造(フィルター)を持っているのかによって、
理解できる内容には限度があります。

人は、
自分のフィルターを通してしか、
物事を理解できません。

だから、
ブログを読んだのに理解できなかったのではなく、

理解を受け取る側のOS
──つまり物事の見方や前提──

を通して、
別の形に変換されていた。

そういう話なのです。

ややこしい話

ここでさらに、
ややこしい話をします。

私は、
夫の理解が間違っているとは思っていません。

「カルマを背負っていかなくては」

それは、夫の
「過去の失敗をもう繰り返したくない」

という、
いたって真面目な気持ちから出てくるものだと思います。

過去の行動を振り返り、
責任を持とうとする姿勢そのものは、
とても大切だと思います。

だからその前提で見れば、
夫の言葉にも一理あります。

ですが、

先ほどの歩行者と車の例のように、

どの視点に立つか前提が変わると、

見えるものも変わります。

これが、この話の一番大切な部分です。

夫のテーマと、正負の天秤について

ではなぜ、
私が夫の今回の発言に違和感を覚えたのか。

それは、
現在の夫がすでに、「自分の行動に責任を持つという人生のテーマに居ない」からでした。

そこについては、
夫の正負の天秤は、
ちゃんとバランスが取れているのです。

逆に、彼の今のテーマ

──つまり天秤のバランスが悪い部分──

は別のところにありました。

そのため今回の
「カルマを背負っていかなくては」という理解は、
今のテーマにはそぐわないと感じたのです。

むしろそれは、
今、夫が向かっている方向に対しては、
足枷になるとさえ感じました。

なぜ夫はその理解になったのか

では、
なぜ夫はその理解になったのか。

さらに深い無意識のエネルギーを見てみると、

そこには、

自己価値への執着▼

何者かへの執着▼

がありました。

私は夫に、上記の一連について構造を説明した上で、

私「俺はカルマを背負っていくという発言は、今のあなたのテーマに合っていない。

ズレている原因は、自己価値への執着から来ているものだよ」

と伝えました。

すると夫は、

「え!?なんで?」

「自己価値に執着してる自覚はある。
でも、それがこの話とどう繋がっているか意味が分からない」

と言いました。

私「そうだよね。この二つは、全然、違うものに見えるよね」

私はそう答えました。

それに、本人からすると、

過去の失敗をちゃんと反省しているだけなので、
なおさら意味が分からなかったのだと思います。

深層のエネルギー構造

私の視点はこうです。

先に一点。

これは一人一人構造は違うので、
あまり詳しく説明しても意味がありませんので、
最低限、夫の構造はこうでした、という内容しか書けません。

誰にでも平等に当てはまるものではありませんので、
自分にそのまま当てはめないでください。

夫は、表面上は過去の失敗を反省しているように見えました。

ですがそこには、
別の力も働いているように見えました。

それは、

「前に進みたい気持ち」と
「もう失敗したくない気持ち」

です。

少なくとも私には、
その二つの力が同時に存在しているように見えたのです。

これ以上、傷つかないように

例えば人は、

不安がある状態で
「カルマ」という概念を見ると、

罪悪感から、

「私は未熟だから」
「反省しなければ」

のように、
自分を戒める気持ちが強く出ることがあります。

その時、
その人の意識は
カルマという原理そのものではなく、

「もう失敗したくない」

という恐れの方へ向いています。

失敗したくない。
傷つきたくない。

そうした思いがあると、
人は自分を戒めることで、
失敗を防ごうとします。

そしてその根底には、

「これ以上、人生の価値が下がるような思いをしたくない。」

という執着があります。

これが、自己価値への執着です。

さらに、

自分は反省すべき人間、
と定義することで、
自分を何者か定義しています。

そう思えば、
失敗したときに、

「もともと失敗する人間だから」

と、これ以上自尊心を下げなくていい。

つまり、
恐れから来る自己防衛です。

これが、
何者かに執着がある状態です。

私の話には、矛盾がある

ここでひとつ。

私は今、
この記事で、

「もともと失敗する人間だ」
と自己定義することは、
自己防衛であり執着になると書いています。

でも昨日の記事では、
逆のことを書きました。

「自分は失敗するという前提でいれば、そんなに落ち込まないよ」

と。

昨日の記事▼

字面だけみれば、
完全に矛盾したことを言っているように見えるかもしれません。

でも、

わかりますでしょうか。

それとこれとは、話の前提が違うのです。

だから私はこのように、
しばしば一見「矛盾」に見えることを言います。

でもそれは、
今の天秤がどうなっているかによるのです。


これが、私が何度も言っている、

前提によって答えが変わる。
一つの正しい聖杯がない


ということです。

その人の状態によって、
今の立ち位置によって、
必要な答えが変わるとは、こういうことなのです。

人生に聖杯がない理由

理解したのではなく、変換していた

話がずれたので戻します。

今回の夫の問題は、
カルマを正しく理解したかどうか、その是非ではありません。

その概念に対し、どのような地点から見ているか。
その自己定義。
つまり、何に執着しているか、だったのです。

夫は、
カルマという概念について、
真面目に受け取ろうとしていました。

でも、
カルマという概念を、
自分の既存の世界観の中へ取り込んで理解してしまったのです。

その結果が

「カルマを背負わなければならない」

という言葉でした。

私はこの現象を、夫だけではなく、
さまざまな人との対話の中で何度も見てきました。

実際、
ブログを何十本読んでも、
同じところで理解が止まる人がいます。

逆に、
たった一回の対話で、
急に理解が進む人もいます。

その違いは、
知識量ではありません。

どれだけ読んだかでもありません。

その人が、
どのような認識構造で物事を見ているかです。

自分の認識構造を超えて理解することは難しい

だから、

「理解できなかった」

のではないのです。

「自分の理解できる形に変換してしまった」

のです。

だからこそ、
本当に理解することは
簡単ではありません。

この記事でお伝えしたいのも、
“正しい理解とは何か”ではありません。

人は自分の前提を通してしか物事を理解できない。

その構造についての話をしています。

ブログと対話の違い

だから私は、
ブログと対話は“別物”だと考えています。

ブログでは、
原理をある程度、
概念的に理解することはできると思います。

ですが、
その人がどこでどう理解を変換しているのかは、
自分からは見えないのだと思います。

なぜなら、
それを理解した時点で、
すでに歪みが生じているからです。

一方で対話では、

その人がどこで止まっているのか。

何をどう変換しているのか。

どのフィルターを通して世界を見ているのか。

知識を教えることが目的ではありません。

私は相手の話している内容そのものではなく、
エネルギーの状態を見て、
必要な対話を行っています。

そして、
その認識構造そのものが変わった時、

同じ言葉でも、
まるで、「少女と老婆の絵」のように
全く違うものとして理解されることがあります。

だから私は、
その人がどのように世界を見て、
何を理解しているのかを見ることを大切にしています。

人は、
理解できないのではありません。

自分の理解できる形に変換してしまうのです。

本当に理解するとは、
知識を増やすことではなく、
自分自身の物事を見る“認識構造”自体が変わることなのです。

タイトルとURLをコピーしました