見えない「原理」について|救いにすると、それは死ぬ

不確実性への態度

原理とは、ただ流れているもの

私が物事をみるとき、

大切にしている「見えない原理」があります。

それが、

因果の法則▼

因果の法則
因果とは、善悪や罰ではなく、物事がどのような流れで生じるのかという構造です。人生の出来事や繰り返されるテーマを因果の視点から整理しています。

正負の法則、陰陽、中庸、均衡、バランス、二律背反▼

調和の原理 (均衡・中庸・陰陽)
陰陽、二元論、中庸、境界線、犠牲構造。対立するものを排除せず、どのように調和へ向かうのか。両方を含みながら調和と均衡へ向かうための原理についてまとめています。

などです。

でもこれは、

それにさえ従っていれば安心、という類のものではありません。

ただ流れている、「一定の原理」のようなものです。

ただ、この世界がどういう原理で成り立っているか。

その性質を表しているだけです。

目に見える原理と、目に見えない原理

たとえば

リンゴを高い所から落とし、地面に衝突すれば、割れます。

これが、物理の原理です。

割れたのは、「リンゴが悪いから」でも、「罰が当たったから」でもありません。

ただ、そういう原理だからです。

先ほど挙げた見えない原理は、

この物理法則と同じように、ただそこに流れているだけのものです。

でも、リンゴのように誰の目にも分かりやすいものとは、少し性質が違います。

だから、人は理解するのが難しいのかもしれません。

原理を「聖杯」に変換してしまう

リンゴと違って、掴みどころがない。

だからこそ、人は、原理をもっと分かりやすくしたくなります。

すぐ理解できる形に収めたくなる。

だから、ただの「原理」を「聖杯」へと変換することがあります。

そして「これさえ守っていれば安心」という概念を、握るようになります。

教典のようなもの、と言ったら良いのでしょうか。

そして、ついには、

「あとは、この枠組みの中で正しくやれているかだけ、考えればいい」

と、考えるようになる。

その枠組みの中で、間違っていないだろうかと、答え合わせをしながら、生きるようになる。

そのとき、原理が死ぬんだと思います。

「安心を守るための枠組み」にした時点で、原理に歪みが生まれるからです。

「原理」が歪むプロセス

原理は、ただ流れているだけのもの。

そしてそこには、「矛盾」が必ず内包されるようになっています。

二律背反、だからです。

だから、原理そのものを、「安心を守るための枠組み」にしていると、ある日、現実が噛み合わなくなる瞬間が出てきます。

そして、「辻褄が合わないぞ」と感じる。

そこで本来は、まず、その事実だけを見るだけで良い。

辻褄が合わない事実が起きている、と。

そして、「今、実際に何が起きているのか」という現実を元に、

ただ、どうするべきかを見極めればいい。

でも、
原理を聖杯にすると、
矛盾が許されなくなります。

原理には、
そもそも矛盾が含まれています。

前提を何に固定するかによって、
答えが変わるのです。

逆に言うと、
前提を固定しなければ、

一つの固定した絶対的な解は
見つけられない

という構造になっています。

そしてその前提さえ、
常に変化するものです。

仏教には
「空(くう)」という考え方があります。

それは、
物事には、
最初から固定された絶対的な意味や答えが
備わっているわけではない、

という見方です。

前提が変われば、
見え方も変わる。

立場が変われば、
答えも変わる

だから、

一つの原理を取り出して
「これが絶対に正しい」



聖杯として固定した瞬間、
本来その原理が持っていた広がりや流動性は
失われてしまいます。

つまり、

原理を聖杯にした瞬間、

原理そのものが死んでしまうのです。

そのとき、
原理が死んだことに気付けないとき、
人は、こう考えます。

「よし、きっと、こう考えれば説明できるはずだ」

「この現象は、こういう原理だ」

と、
自分が信じたい「聖杯」に沿って、

原理の方を歪めて、
再解釈してしまいます。

これが、原理が歪められるプロセスです。

そして、このプロセスは、人は無意識で行っています。

だからこそ、自分が歪めて見ていること自体に、気付けない。

なぜそんな風に、人は事実より、わかりやすい解釈を優先してしまうのでしょうか。

人は「事実」より「安心」を優先してしまう

それは、心のバランスをとるため、つまり安心するため、なのだと思います。

人は、未知のもの、不確実性のあるものが、苦手です。

だからこそ、事実より、安心を取ろうとする。

でも本来、そこにあるのは、事実と原理だけ。

原理とは「人を安心させるため」ではなく、ただ静かに、そこに流れている川のようなものです。

しかし人は、不安になると、その川そのものを見れなくなる。

なんなら、その川を違った流れにしてしまえば、辻褄が合う、と考えて、「こう考えれば安心できる」という自己解釈を、握ってしまう。

そんなとき、本当に見るべきは、その『安心したがる心の在り方』なのかもしれません。

できること

本当に必要なのは、「安心できる解釈」を、探すことではなく

不安定さや曖昧さの中でも、何かにすがらない、心の土台なのだと思います。

そのために大事なのは、

原理に沿って、なぜ今の現実が立ち上がっているかを、見ることです。

そして、どこで歪みが出たのかを、見る事です。

そのようなプロセスを経て、心と現実は、自然と歪みのない形へ、整合されていきます。

分かりやすく解釈し、「これを守っていれば大丈夫」という安心へ変換したとき、原理は死にます。

ただ静かに、この世界を流れているもの。

原理とは、そういう性質のものです。

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