何も失われないという感覚
必要なものは、
必要なタイミングで
やってくる。
私は、
そんな前提で
世界を見ている感覚があります。
だから、
何かを得るために、
無理に取りに行こうとする
「力み」がありません。
何とか人から
奪おうともしないし、
反対に、
奪われないように
過剰に守ろうともしない。
その根底にあるのは、
「何も失われない」
という感覚なのだと思います。
これは、
何も欲しくないとか、
すべてに満足している、
ということとも
少し違います。
私の感覚では、
自分の中に
天秤のようなものがあって、
その両側が
釣り合っているような感覚があります。
どちらか一方に
大きく傾いているのではなく、
均衡が保たれている。
だから、
「足りないから、
何かを得なければならない」
という不足が
立ち上がらない。
欲がなくなったというよりも、
天秤の両側が釣り合い、
不足そのものを感じない。
私にとっては、
そんな感覚に近いのだと思います。
均衡が保たれ、内なる秩序がある状態について▼
死生観について
今持っているものですら、
いつかは失うものだという
前提があります。
私たち人間は、
死んだら、
持って帰れないものに
囲まれて生きています。
だから、
何かを失ったとしても、
「初めから何も持たずに
生まれたのだから、
失ったというより、
元に戻っただけ」
というような感覚があります。
大切な何かを
失ったと思っても、
本当は、
何も失われていない。
むしろ、
何も持たずに
生まれてきたけれど、
死ぬときには、
たくさんの思い出を
持って帰る。
そんなふうに感じます。
これまでの人生で、
嬉しかったことも、
楽しかったことも、
失敗したことも、
恥ずかしかったことも、
全部、
「自分の大切な思い出」
という感覚です。
そして死ぬときには、
その思い出を
持って帰るのだ、
という感じで
生きています。
必要なものが配置され、去っていく
大切な何かを失っても、
また本当に必要なら、
必要なものは、
必要なタイミングで配置される。
そんな感覚があります。
だから、
得ることも、
失うことも、
そのときの人生の中で
起きている一つのプロセスとして
見ています。
そこまでの役割だったから、
去っていった。
また必要なものがあれば、
やってくる。
もちろん、
大切な人やものを失えば、
悲しむことはあります。
けれど、
その人との時間や、
そこで経験したことまで、
なくなってしまうわけではありません。
思い出は、
自分の中に残っています。
人との出会いも、
大切な人との別れも、
そして、
自分自身が
年を取っていくことも、
私は同じように
捉えているところがあります。
人生とは、
必要なものが配置されては、
また去っていく。
私はただ、
そのプロセスを
生きているのだと思います。
ただ、その瞬間を生きている
だから、
人生に何か
大きな意味があるというよりも、
毎日、
お腹が減ったから食べる。
必要としている人がいるから、
必要な対応をする。
仕事があるからやる。
必要がなければ、
やらない。
ただ、
その瞬間の連続を
生きているような感覚があります。
今つらければ、
つらいなりに
目の前のことをする。
楽しいなら、
その楽しさを
そのまま味わう。
必要なものが
配置されては去っていく、
そのプロセスを
生きている。
ただ、
営んでいる。
そんな感覚です。
何かを成さなければ。
何者かにならなければ。
そうした力みは、
あまりありません。
ある意味、
流されて生きているとも
言えるのかもしれません。
ただ、
「できれば、
こういう生き方がしたい」
というものはあります。
私にとっては、
自分に嘘をつかないこと。
それが一つ、
大切なことなのだと思います。
欠乏か、満たされているかで見ていない
「もっとこうだったらいいのに」
という欠乏感から、
物事を見ることは
あまりありません。
けれど、
だからといって、
「私は満たされている」
という感覚が
強くあるわけでもありません。
私の感覚では、
やはり、
ただ均衡している。
という方が近いです。
欠乏している。
満たされている。
そのどちらかに
いるというよりも、
天秤の両側が
釣り合っている。
だから、
不足も、
満たされているという感覚も、
あまり立ち上がってこない。
「満たされているか」
という視点に立てば、
同時に、
「満たされていない」
という反対側も
立ち上がります。
けれど、
私はそもそも、
欠乏しているのか。
満たされているのか。
というところから、
毎日を見ていないのだと思います。
これは、
お金があるから
そう思えるとか、
現実的に恵まれているから
満たされている、
という話でもありません。
人生が、
必要なものが配置されては、
去っていく、
一つの営みとして
続いている。
だから、
不足しているのか。
満たされているのか。
という捉え方自体を、
あまりしていないのだと思います。
欲について思うこと
周りを見ると、
何かを必死に求めて
動いているように見える人もいます。
ネットやSNSでは、
「欲をなくす」
「執着を手放す」
といった方法も
たくさん語られています。
けれど、
欲をなくすために、
一生懸命、
欲を抑えようとする。
それ自体が、
「欲をなくしたい」という
新しい欲になっている。
そんな矛盾も
起こり得るのだと思います。
だから私は、
欲を否定することも、
欲を正当化することも、
あまり必要だとは
思っていません。
人間には、
欲がある。
まず、
そのこと自体を
理解することが、
必要なのだと思います。
自分にも、
他人にも。
そうすると、
欲の強い人を見ても、
「そんな欲を持つなんて
間違っている」
と、
その人を排除する必要も
なくなっていきます。
人間には、
そういうものがある。
だからこそ、
それをどう理解し、
どう付き合っていくのか。
そういう目線に
変わっていくのだと思います。
欲を排除するのではなく、
理解し、
赦していくことについては、
こちらの記事で
詳しく書いています▼
社会に対する感覚
社会とは、
一人ひとりの役割が、
ネットワークのように
幾重にも折り重なったものに見えます。
人は、
一人では生きられません。
だから、
それぞれが
できる役割の中で、
お互いの役割を尊重しながら、
自分の生を
まっとうしていく。
自分も、
その社会の循環の
一部にすぎません。
バランスの中で
生かされている存在。
均衡の中にいる。
そんな感覚があります。
だから、
自分だけが得ようとすると、
そのネットワーク全体の
バランスを崩してしまうように感じます。
「役割」に対する感覚
役割は、
状況が変われば、
変わっていくものだと思います。
けれど、
人は、
一つの役割や肩書きに
すがりついたり、
いつの間にか、
それが自己証明に
すり替わったりすることがあります。
そして、
そこから奪い合いが
始まることもあります。
けれど、
本当に大切なのは、
そのとき自分が
力を発揮できる役割を、
ただ全うすることなのだと思います。
移り変わる人生の
プロセスを生きている。
そんな感覚があれば、
何かを証明するために、
一つの役割へ
しがみつく必要もなくなっていきます。
そして、
自分の内側と
生きている現実が一致してくると、
自分にとって自然なことをすることが、
そのまま誰かのためになる
ということが
起きるようになります。
自分の中にある、
原理に沿った望みに従って
行動している。
それが、
本人にとっては
ごく自然なことになっている。
そして、
その行為が
誰かの役に立つものでもあるから、
結果として、
人から必要とされることがある。
私が言う「自然体」とは、
ただ何もせずにいれば、
自然と良い結果が
やってくる、
という意味ではありません。
自分の内側と、
自分が選ぶことと、
生きている現実との間に、
分離が少なくなっている。
その状態に近いのだと思います。
このことについては、
「大いなる流れ」についての記事でも
詳しく書いています▼
最後に
ここまで書いてきたことは、
あくまで、
私自身が日々感じている
感覚を言葉にしたものです。
私たち人間は、
気づけば簡単に
欲に振り回されます。
何者かになろうとして
苦しくなったり、
お金や肩書きで、
自分の価値を
証明しようとしたりする。
けれど、
私がここで書いている、
「得ようとする心がない状態」
とは、
欲をなくすことでも、
欲しいものを
何でも得ることでもありません。
分離していたものが
統合されていく中で、
自分が考えること。
感じること。
選ぶこと。
そして、
実際に生きている現実。
それらが、
少しずつ、
一つの方向へ収束していく。
私がこの記事で書いてきた感覚も、
その状態を、
一つの側面から
言葉にしたものなのだと思います。




