「原理」を「救い」に変換するな

不確実性への態度

秩序は「安心装置」ではない

「これこそ絶対的真理」というものがあれば、人はどれだけ楽なのでしょう。

それにさえ従っていれば安心、というものです。

でも、そんなものはどこにもない。

あるのは、ただそこに一定の秩序が流れているだけ。

私が大切にしている秩序とは、

因果の法則

正負の法則

陰陽バランス

二律背反の法則

などです。

これは、

「この法則に従わないと地獄に落ちる」

「これを守らないとバチが当たる」

そのような「脅し」として理解するものではありません。

ただ、この世がどういう原理で成り立っているか。

その性質を表しているだけです。

目に見える法則と、目に見えない法則

物理法則があります。

リンゴを高い所から落とし、地面に衝突すれば、割れます。

それは「リンゴが悪いから」でも、「罰が当たったから」でもありません。

ただ、そういう原理だからです。

私から見ればこれらの法則も、物理法則と同じように、ただ存在しているシンプルな原理です。

でも、ここに挙げた法則は、目に見えない法則です。

リンゴのように実体があり、誰の目にも分かりやすいものとは少し性質が違います。

だから、人は理解するのが難しいのかもしれません。

人は、原理を『聖杯』に変換してしまう

だからこそ、人はそれをもっと分かりやすくしたくなる。

誰もがすぐ理解できる形に加工したくなる。

そして、ただの原理、法則だったはずのものを、

「これさえ守っていれば安心」

と言い切れる『聖杯』へと変換してしまうのです。

その聖杯を手にしたとき。

人は、

「あとは、この聖杯の中で正しくやれているかだけを考えればいい」と、

その「箱」の中だけで、迷ったり、悩んだり、考えたりするようになります。

まさに、井の中の蛙のように。

でもそれこそが、物事を歪めて見る入口です。

「解釈」が歪むプロセス

「あとは、この聖杯の中で正しくやれているかだけを考えればいい」

そうやって生きていると、

ある日、自分の信じてきたことと、現実が噛み合わなくなる瞬間が出てきます。

「ちゃんと正しくやってきたはずなのに、おかしい」

「信じてきた通りにやっているのに、辻褄が合わない」

そんな感覚です。

本来であれば、

「おや、自分の信じてきたことと、事実の辻褄が合わないぞ」

と、まずはその事実だけを見ればいい。

そして、「今、実際に何が起きているのか」という現実を元に、どうするべきかを見極めればいい。

そこに起きている出来事こそが、まぎれもない事実だからです。

でも人は、辻褄が合わない現実に対して、

「よし、きっと、こう考えれば説明できるはずだ」

と、自分の色眼鏡に合わせて事実を解釈し始めてしまいます。

しかも、このプロセスは、私たちが意識的にやっているわけではありません。

もっと深い層で、無意識的に行われています。

だからこそ、自分が歪めて見ていること自体に、気付けないのです。

なぜそんな風に、人は事実を見るより、解釈を優先してしまうのか。

人は「事実」より「安心」を優先してしまう

それは、そうしないと心のバランスが取れない、つまり安心できないためです。

人は、未知のもの、不確実性のあるものが、苦手です。

だからこそ、事実より、安心を取ろうとするのです。

でも本来、そこにあるのは、事実と原理だけ。

原理とは「人を安心させるため」に存在しているものではありません。

ただ静かに、そこに流れている川のようなものです。

しかし人は、不安になると、その秩序そのものを見るのではなく、

「安心できる解釈」

を求め始めるという事です。

でも、その『安心したい』という心の在り方こそが、

遅かれ早かれ、バランスを崩す土台の弱さではないでしょうか。

現実を見続ける心の強さ

本当に必要なのは、「安心できる解釈」を探すことではありません。

不安定さや曖昧さの中でも、現実を見続けられる、強い心の土台なのだと思います。

秩序とは、本来、人を安心させるためのものではなく、ただ静かに、そこに流れているもの。

でも人は、その秩序を「少しずつ自分に都合のいい解釈」に変換して、救いを求めようとしてしまう。

そして現実を見失い、どんどん現実と自分の解釈が乖離していく。

すると結果論として、ただそこに望まぬ現実が立ち上がる。

それも、原理に沿って現実が起きているだけ。

シンプルな因果です。

できること

では、そんな風に望まぬ現実に直面したとき、どうすればいいか。

本当に大事なのは、たった1つ。

我を振り返る姿勢をもって、素直に自分の歪みを戻すことです。

それは、言うのは簡単ですが、実際にやるのは楽なことではありません。

なぜならば、自分が信じてきた人生の土台である「信念」を、根本から見直すことだからです。

それはときに、天地がひっくり返るような、衝撃を伴うものでもあります。

でも、そういうプロセスがあってこそ、物事をあるがまま観る姿勢が養われていくのだと思います。

私はセッションで、「正しい答え」を渡すことはしていません。

むしろ、なぜあなたはその現実に至ったのか。

その現実に至る、考え方、ものの見方は何か。

そこには、安心できるなにかにすがる心はなかったか。

そうした心の構造を、一緒に整理しています。

現実を見続ける心の強さとは、そうやって「安心できる解釈」に逃げていた自分を見つめることで、少しずつ養われていくものです。

原理とは、本来「救い」ではありません。

ただ静かに、この世界を流れているもの。

それだけのものです。

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