二元論②二元論を抜けたつもりの二元論

無意識の構造

分かりにくい二元論がある

前回の記事では、「わかりやすい二元論」についてお話しました。

①はこちら↓

「私が正しくて、相手が間違っている」

「どちらが上か下か」

「認められているか、否定されているか」

そのような、分かりやすい二元論です。

ですが実は、二元論というものは、もっと分かりにくい形でも現れます。

「私はもう二元論ではない」という二元論

「私はもう、人を善悪でジャッジしなくなりました」

「やっと中庸が理解できるようになりました」

「以前の自分に比べて、成長しました」

そうおっしゃる方がいます。

確かに、以前のような分かりやすい対立構造からは抜けているのかもしれません。

ですが、人の成長はそこで終わりではありません。

今度は、

「私の方が、世間に比べ、より中庸である」

「私の方が、あの人よりも、分かっている」

「私はもう善悪で物事見ていない」

という、『より高度で分かりにくい二元論』に入っていくことがあります。

二元論は、形を変えて繰り返される

これは、一見すると非常に分かりにくいです。

なぜなら、一見すると「精神性が高い話」に見えるからです。

ですが構造としては、

「だから私は正しい」

という「何者かになろうとする構造」というです。

ただ、「何をもって自分を証明するか」が変わっただけなのです。

以前は、

「お金を持っている」

「人生の勝ち組だ」

「評価されている」

だったものが、

「私は執着がない」

「私は中庸である」

「私は分かっている」

に変わっただけ。

つまり、人はどこまで行っても、「自分は正しい側でありたい」そう証明したい構造に入り続けることがあります。

「抜けたつもり」になる時、さらに抜けにくくなる

ここが、とても難しいところです。

分かりやすい二元論の中にいる時、人はまだ「苦しみ」に振り回されているから、自分が二元論だだと気付きやすい。

ですが、

「私はもう分かっている側」

という状態に入ると、自分が再び二元論に入っていることそのものが見えなくなっていきます。

だからこそ、精神性の話というのは難しい。

「私は目覚めている」

「私は分かっている」

そう思った瞬間に、また新しい自己証明が始まることがあるからです。

人はどこまで行っても「自己証明」をしたくなる

結局、人はどこまで行っても、

「自分には価値がある」

「自分は間違っていない」

「自分は分かっている側だ」

という安心が欲しくなる生き物なのだと思います。

これもまた、人間の性だと思います。

だから、二元論というのは単純な「善悪」の話ではありません。

もっと深いところで、「自分の存在価値の証明」と結びついています。

だから終わりがない

だから結局、人はどこまで行っても、自分自身を観察し続けるしかないのだと思います。

「もう分かった」

「私は抜けた」

そう思った瞬間に、また別の形で二元論が始まることがあるからです。

それはまるで、マトリョーシカのように、次々と形を変えて現れます。

だから大切なのは、

「私はもう大丈夫」

と固定することではなく、今、自分は何を証明したがっているのか。

どこでまた、「正しい側」に立とうとしているのか。

それを、静かに見続けることなのだと思います。

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