「正しさ」と「秩序」はまったく違う

無意識の構造

この世には秩序がある

このブログでは、この世に正解も真理も存在しないとしています。

これが正しい、これをやっていれば助かる、救われる。

そんな安心してすがれるような答えは、探してもどこにもありません。

でも、「一定の秩序」は流れています。

目には見えませんが、確実に存在している「法則」のようなものです。

その秩序というのは、

「誰かが決めたルールを守ればOK」

というような、教義や、機械的なものではありません。

たとえば雪の結晶。

誰かが「この形になりなさい」と指示しているわけではない。

でも、温度や水分や環境によって、自然と秩序だった美しい形が生まれていきます。

そこには、『固定された正解』はありません。

でも確かに、あの美しい雪の結晶ができる。

そんな風に、一定の法則や流れは存在している。

秩序というのは、本来それに近いものだと思います。

判断基準は、「正解」ではなく「秩序」

そして重要なのは、その秩序に反しない選択を、判断することだと思います。

これは一見、「え?それって何が正解かを外側に求めるのと一緒じゃないの?」と思われるかもしれません。

なぜならば、裏を返すと、「秩序に沿った行動さえしていればOK」とも読めるからです。

ハッキリ言います。

そうではありません。

言葉遊びのように聞こえるかもしれませんが、

「秩序に沿った行動さえしていればOK」

というのと、

「その秩序に反しない選択を、判断する」

というのは、天地ほどの差があります。

「秩序に沿う」と「正しさに依存する」は違う

なぜならば前者は、「正しさ」を外側に固定しようとしている状態だからです。

つまり、

「これを守れば安心」
「この通りにしていれば間違えない」
「このルール通りなら救われる」

という、『依存できる答え』を探しています。

でも、秩序というものは、本来そんな単純なものではありません。

もっと流動的で、状況によって形を変えます。

同じ言葉でも、人によって意味が変わる。

同じ行動でも、タイミングによって結果が変わる。

昨日まで正しかったことが、今日には歪みになることもある。

だから本来、「秩序に沿う」というのは、マニュアルを暗記することではないんです。

その場その場で、

「これは流れを壊していないか」
「これは誰かをねじ伏せる方向に向かっていないか」
「これは自分の欲だけを通そうとしていないか」

そうやって、自分で観察し続けることなんです。

秩序は固定されたルールではない

つまり、『判断する力』が必要になる。

ここが一番しんどい部分です。

人は本来、判断したくないんです。

なぜなら、判断には責任(コスト)が発生するからです。

だから人は、

「先生が言っていた」
「有名な人が言っていた」
「みんなそうしている」
「これが宇宙の法則らしい」

というものに飛びつきます。

その方が楽だからです。

自分で考えなくて済むからです。

でも、それを続けている限り、人は『自分の感覚』を失っていきます。

すると最終的には、

「本当は違和感がある」
「なんか苦しい」
「どこか無理している」

そう感じているのに、

「でも正しいらしいから」

という理由で、自分を押し潰し始めます。

これは秩序に沿っているように見えて、実際は真逆です。

なぜなら秩序というのは、本来「生きた流れ」だからです。

固定された正解集ではありません。

川の流れみたいなものです。

川は、地形によって流れを変えます。

障害物があれば避ける。

雨が降れば増える。

乾けば細くなる。

でも、それでも全体として流れ続けている。

秩序もそれに近い。

だから本当に必要なのは、

「これが正解か?」

ではなく、

「これは流れを壊していないか?」

を見続けることです。

秩序を見るには「不確実性」を許容する必要がある

では、流れを壊す、壊さないはどこで判断するか。

そのヒントが、「あるがまま因果を見ること」にあります。

でも人はあるがまま物事を見ることが苦手です。

どうしても自分にとって都合よく解釈したくなるものです。

そうしなければ、心のバランスが取れない。

ある意味で、心のバランスをとるために、本当はそうじゃないことも、そうだということにして理解しておきたい、という心理が働きます。

たとえば、会社の人間関係。

上司が悪い。

部下が悪い。

会社がおかしい。

そう感じることがあるかもしれません。

もちろん実際に問題があるケースもあります。

ほとんどの問題は、一方だけに原因が置かれていることはありません。

でもそこで、自分の中で心のバランスをとるために、何かを悪者に決めたり、悪口を言って結論付けて、スカッとしようとすると、あっという間に物事を歪めて見る色眼鏡がかかってしまいます。

だからこそ、そのような時には、「わからなさを許容する」というスタンスが必要です。

すぐに結論を出さないこと。

そして冷静に、あるがまま何が起きているかだけを観察すること。

それがヒントです。

人は、自分が責められたり、不利な立場になると、

「自分は悪くない」
「相手がおかしい」

と結論づけたくなります。

でも本当は、それぞれにその体験をする因果や背景があり、なるべくしてその配置になっているだけです。

一方だけが原因になっていることはほとんどありません。

だから、大事なのは、まず事実を見ることです。

自分は何を歪めているのか。

相手は何を歪めているのか。

その配置は本来、何を回収する流れなのか。

それを大きな視点で見ていくことです。

因果を見る時に人が陥りやすいこと

でも、その時に間違いやすい事があります。

だから相手は裁かれるべきだ、と。

バチが当たらないとおかしい、と。

相手に報復したり、反省すべきだというスタンスになれば、それもまたあなたが物事を歪めて見ていることになります。

なぜならば、本来それは各々が自分の中で回収するだけの課題であり、そこには自由意志があるからです。

反省すべきだ、と言うスタンスは、相手の自由意志を無視して、自分の思い通りに行かせたいという気持ちです。

秩序とは、そのような見方そのものを、いずれ現実として返してくるものだからです。

だから、「バチが当たった」と見えることがあったとしても、それは誰かに罰を与えられているわけではありません。

ただ、その人自身の見方や在り方による因果が、構造通りに返ってきているだけです。

秩序とは「自分の歪み」を観察すること

つまり秩序とは、

「誰が正しいか」を決めるためのものではありません。

もっと構造的なものです。

自分がどんな意識で物事を見ているのか。

どんな欲で相手を動かそうとしているのか。

どんな恐れから現実を解釈しているのか。

その『見方そのもの』が、やがて現実として返ってくる。

だから秩序を見るというのは、

外側を裁くことではなく、ただ自分の歪みを観察することでもあります。

そしてその時に必要なのが、「わからなさを許容する力」です。

白黒ハッキリさせたくなる。

誰が悪いのか決めたくなる。

自分が正しかったと思いたくなる。

でも、その「確定したい欲」が強くなるほど、人は現実を都合よく歪め始めます。

だからこそ、

「今はまだ全部わからない」
「自分も歪めて見ている可能性がある」
「相手にも相手の因果がある」

そうやって、不確実性を抱えたまま観察し続ける姿勢が大切になります。

秩序とは、「これさえ守っていれば大丈夫」のような「安心できる答え」ではありません。

むしろ逆です。

自分の欲や恐れによる歪みを浮き彫りにしながら、それでもなお、現実をあるがまま見ようとし続ける流れそのものです。

だからこの世で本当に問われているのは、

「何を信じるか」

ではなく、

「自分は現実を歪めずに見ようとしているか」

なのだと思います。

特にトレードをしている人にも、この「不確実性を許容する力」は重要になります。

まずは日常の人間関係や現実の中で、「わからなさを抱えたまま観察する力」を養うことです。

そして、自分がどれだけ物事を歪めて見ているのかを知りたい人は、まずは状態マップを見てみてください。

自分の見方のクセや、どこで現実を確定させたがっているのか。

そこを観察することが、秩序を見る第一歩になると思います。

状態マップはこちら↓

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