はじめに
この記事は「二元論シリーズ」の第5回です。
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本当の問題は二元論そのものではない
ここまで、
二元論についてお話してきました。
どちらが正しいのか。
どちらが上なのか。
誰が悪いのか。
そうした二元論は、
人間関係に様々な苦しみを生み出します。
そのため、
二元論を手放そう。
ジャッジをやめよう。
善悪を超えよう。
そのような話が語られることがあります。
確かに、
それ自体は間違いではありません。
ですが、
本当の問題は、
二元論そのものではありません。
二元論を手放したつもりの構造
例えば、
ジャッジしないようにしよう。
善悪を手放そう。
相手にも相手の正しさがある。
ニュートラルでいよう。
中庸でいよう。
そのような考え方があります。
ですが、
本当に心の在り方が変化したかは別の話です。
なぜなら、
新たな考え方を採用しただけで、見ている構造が変わっていない
ことがあるからです。
新しい正しさが始まる
以前は、
「私は正しい」 vs 「相手が間違っている」
でした。
ですが今度は、
「私は中庸である」
「もうジャッジしていない」
「ニュートラルになった」
になります。
そして、
「あの人はまだ二元論だ」
「あの人はまだ執着している」
という見方が始まります。
すると、
以前とは言葉が変わっただけで、
実際には
正しい側
と
間違っている側
を心の中で作り続けていることになります。
構造は何も変わっていません。
なぜ繰り返されるのか
ではなぜ、
このようなことが起きるのでしょうか。
それは、
二元論が問題なのではなく、
二元論を生み出している「それ」が残っているからです。
例えば、
私は理解した。
悟った。
分かっていない人と分かっている人がいる。
選ばれた人だけが分かる。
そうした思いです。
すると、
以前は、
キャリア、仕事、お金で証明していたものが、
今度は「悟り、精神性、理解度」で証明されるようになります。
対象が変わっただけです。
二元論は結果である
私は、
二元論は原因ではなく、
結果だと思っています。
認められたい。
価値を証明したい。
何者かでありたい。
そうした執着が、“因”です。
だから、
自分が正しいことを証明したくなる。
分かっていない人は価値がない。
こうして、二元論が生まれる。
これが“果”。
つまり、
本当に見なければならないのは、
二元論そのものではありません。
その奥にある執着です。
理解されない限り繰り返される
だから、
二元論を否定しても終わりません。
ジャッジをやめても終わりません。
中庸という言葉を覚えても終わりません。
自分が何に囚われているのか。
その執着が理解されていなければ、
二元論は何度でも形を変えて現れます。
仕事で、
恋愛で、
夫婦で、
子育てで現れます。
精神性の世界でも現れます。
だから、
ジャッジを止めることが大切なのではありません。
なぜ、そうして正しい側に立ちたがるのか。
その心の根底を見ていくことが、
大切なのだと思います。
本当に見なければならないもの
ですが、
人は自分では見えていないものに、
気付くことが難しいものです。
私のセッションでは、
なぜ同じ苦しみが繰り返されるのか。
なぜその考え方から離れられないのか。
そうした背景にあるテーマを整理しながら、
何に囚われているのか。
何が理解されていないのか。
その視点を通して、
執着を解いていく対話を行っています。






