はじめに
この記事は「人生の構造シリーズ」の第2回です。
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前回は、
人は不足感を抱えながら生きており、
人生とは、
その不足感に振り回されない在り方を
少しずつ学んでいく構造ではないか
というお話をしました。
では、
その不足感は現実の中で、
どのように現れるのでしょうか。
今回は、
その一つである「犠牲構造」について考えます。
不足感は「犠牲構造」として現れる
人は不足感が強くなると、
「どちらかが犠牲にならなければ、この状況は成り立たない」
という見方をしやすくなります。
例えば、
自分が我慢しなければならない。
自分が頑張り続けなければならない。
あるいは、
誰かが負けなければならない。
誰かが責任を負わなければならない。
形は違っても、
その根底には、
「どちらかが犠牲になるしかない」という共通した世界認識
があります。
自己犠牲と他者犠牲は同じ構造
自己犠牲は、
自分が削られる方向です。
他者犠牲は、
他人が削られる方向です。
方向は反対ですが、
構造は同じです。
どちらも、
「犠牲なしでは成り立たない」という同じ前提
の上で成り立っています。
つまり、
自己犠牲と他者犠牲は、
本質的には同じ二元論によって生まれているのです。
二元論について▼
人は二択しかないと思い込みやすい
不足感が強くなると、
人は、
二択で世界を見やすくなります。
そして、
それ以外の選択肢はない
と思い込んでしまいます。
ですが、
本当にそうなのでしょうか。
もしかすると、
世界がそうなのではなく、
不足感というフィルターを通して、
世界を見ていることで、
そう見えているだけなのかもしれません。
人生で問われていること
人生では、
「どちらかが犠牲になるしかない」
と思える場面に、
何度も出会います。
ですが、
人生が問いかけているのは、
どちらを犠牲にするかではありません。
その構造そのものを超えられるか
ということです。
自分を犠牲にする。
誰かを犠牲にする。
その二択から少しずつ離れ、
別の選択肢を見つけていく。
私は、
人生にはそのような命題があると考えています。
次回は、
「まだ理解していないテーマ」が繰り返し現れる構造
というお話です。






